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国内オーケストラ業界と岡山フィル発展への研究(その6:岡山を文化デフレ社会から、文化芸術資本が循環する社会へ) [オーケストラ研究]

 これまでのエントリーは、できるだけ先入観を排して、データを読み解くことを重視してきました。今回の記事は、大部分が筆者の主観によるものであることを、はじめに断っておきます。
 今回からいよいよオーケストラは育むための、岡山という街の『土壌』について考えていきたいと思います。
地方都市でオーケストラが生き残っていくためには、色々な政策的テクニック論があると思いますが、このシリーズを打っていて、「これはどうしても述べておきたい」と思うに至ったことを今回は触れていこうと思っています。

 これまでのエントリーで、オーケストラが「独立採算」で存立可能なのは莫大な「富の集積」がある東京圏のみ。地方においてオーケストラを維持するためには多額の「安定財源」が必要で、その多くが自治体による公的資金、それにプラスして地元財界を中心とした民間の資金援助が必須であることを述べた。つまりはその街の「総合力」が試されるわけで、岡山フィルの今後を考えるということは、その本拠を置く岡山という街そのものについて考えることにも繋がっていく。

 今回のエントリーのキーワードは、「文化資本デフレ社会」からの脱却と「文化・芸術資本が循環する社会」へ。


芸術家が集まらない街:岡山


 岡山市の文化芸術振興ビジョンによると、市の全就業者数に占める芸術家の割合は、全国平均の0.63%を下回る0.53%で、全国平均を下回り政令指定都市としてはかなりさみしい数字(下位グループに位置)であり、文化芸術のマンパワーが決定的に不足している状況が見て取れる。

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「岡山市文化振興ヴィジョン H29~33」より
 岡山で芸術家の割合が低迷しているのはなぜか?芸術作品に対する需要の不足、芸術家を支えるマネジメントや人的ネットワークの不足など、様々な問題点が指摘されているが、私がこの街で四半世紀近く生活してきたうえで「これでは芸術家やクリエイターが育たない」と感じるはっきりとした原因があると思っている。それは芸術家やクリエイターの仕事に対する正当な対価が払われる文化・土壌が少ない、あるいはそうした意識が弱い、『文化資本デフレ社会』であるということだ。

文化資本デフレ社会:岡山の問題点

 この『文化資本デフレ社会』は、岡山に限ったことではなく、地方都市の大部分が抱えている現象だと思う。
 岡山を含む多くの地方都市と、大都市・文化都市と言われる街との大きな違いは、人の手が入ったクオリティの高い仕事への対価に対する態度の違いである。大都市・文化都市には値段が高いものに対して、どれだけの技術や優れたデザインが盛り込まれているか?それを推し量る審美眼を持った人が多く、本当にいいものなら少々高くても売れていく。
 しかし岡山も含めた地方の中小都市の現状を見ると、例えば「パンフレット作成」という仕事一つ取ってみても、すぐれた技術力・企画力やデザイン力がある会社よりも、「安かろう悪かろう」の会社の方が売り上げを伸ばす傾向が強い。デザインの差が圧倒的でも、両者に価格差があれば、たとえそれが技術力・クオリティの高さに起因する価格差であるとしても、かなりの割合で「安かろう悪かろう」の方が岡山では選ばれてしまう。
 ただし、例外がある、それは「東京で話題になっている・流行っている」モノ・サービスや、東京から派遣されたプロモーターが手掛けるイベントに関しては、少々高くても売れることだ。地元のクリエイター達が渾身に作り込んだものが売れず、地元経済がデフレ化する一方で、東京資本のモノやサービスは活発な取引がある。結果、売上金はどんどん東京へ流出する。

文化デフレ社会=悪貨が良貨を駆逐する社会の犯人

 岡山が本気で「芸術・文化都市」を目指し、「岡山」のブランディングを向上しようと思っているのなら(岡山の「ブランド向上のために」、文化・芸術に力を入れる、という考え方は飛躍があるのだが、それにつてはのちほど・・・)、この「悪貨が良貨を駆逐する」ような土壌・文化については議論されるべきだろうと思う。

 しかし文化資本デフレを助長する、「悪貨が良貨を駆逐する」ような傾向は岡山市や岡山県など公共セクターが発注する仕事にも顕著に見られる。見られるどころか、これらの地元の公共セクターこそが競って「価格」重視で買い叩き、「文化資本デフレ社会」へ邁進しているように思えるのである。
 単価が数%高いだけで、優れたデザインや企画が生き残れず、安かろう悪かろうが生き残っていくこの街で、クリエイターたちが生活していくのは至難の業だと思う。

 そして、もっと深刻なのは、公共セクターが脆弱な財政基盤を理由に、芸術や文化への予算を「ケチり」、芸術家やクリエイター達への報酬や対価を買い叩いていることだ。筆者は実際にそうした現場を多く目にしてきた。彼らの度し難いところは、そうした芸術・文化に対する「値切り」行為を恥ずかしげもなく堂々と「成果」として誇ってすらいるように見えることだ。

 そうした公共セクターだが、東京資本の文化マネジメント組織や代理店に対しては、あっさりと財布の口を開いてしまう。田舎者根性が染みついている(失礼!)彼らは、東京の洗練された業界人たちに手玉に取るように操られ、莫大な資金をかっさらわれてしまう。私は岡山に住んで長いが、メンタリティの奥底には関西人としての東京への反骨精神があるので、「東京がなんぼのもんじゃ」とルサンチマンの塊のように奮闘しようと息巻いているのであるが(こういうメンタリティもどうかと思うが・・・)、『東京では話題になってるんですよ』という殺し文句に弱い公共セクターのゆがんだメンタリティを見ると、こちらまで力が抜けてしまうのだ。

そのモノが持つ価値は、「東京で話題になっていること」ではない

 岡山という街にクリエイター・芸術家が集まり、彼らの創作活動や演奏活動が街の活力となっていくためには、まずは「技術と芸の粋を集めた作品・演奏」に対して、きちんと価値を評価し、身銭を切ってそれらを手に入れる、体験する、という文化が育つことが必要不可欠だと思う。
 一人一人が審美眼を磨いていくこと無しに、「東京では話題になっているから」ではなく、岡山の土壌から良質なモノが続々と生まれ、芸術家が集まる街になることは決してないだろうと思う。

 岡山フィルについて言うと、例えば、スクールコンサートのギャランティとして県や市から出ているお金は正当な価格なのか?現在でも岡山フィルの演奏技術は向上しているし、首席奏者が整備されれば演奏水準も上がる。当然、出演料も値上げされるべきだろう。しかし、市や県は演奏報酬の値上げにはそうそうは応じまい。必ず「同じ曲で同じ時間を演奏しているのに、なぜ値段を上げる必要があるのですか?」、そういう発想に支配される。東京のプロモーターからの「東京ではこれぐらいの価値が認められているんです」という殺し文句とともに高額の提示をされても、鵜呑みにしてしまうのにも関わらず、である。そういった公共セクターの判断一つ一つが積み重なり、それが民間にも波及して、岡山にクリエイター・芸術家が集まらない街になっていく、という悪循環に陥っているのではないか?

 話は逸れるが、京都に「門掃き」という習慣がある。早朝に自分の家や店の前の道を掃除する習慣のことだが、この門掃きに使われる箒を専門に売っている店が存在する。1本1万円近い箒がコンスタントに売れていくそうだ。京都の人は本心を隠して「ホームセンターで売ってる安物の箒なんか、恥ずかしくて門掃きに使われへんわ」と理由を述べるのだが、本当のところは、やはり値段の高い箒は長持ちで掃き心地もが良く、塵が飛び跳ねにくいなど、機能面でも優れている。朝一番に行う仕事を気持ちよく行うために「1万円は払うても惜しない」、それが京都の人々の本心なのだろうと思う。
 京都には、こうした専門店が何百年と続いている。扇子専門店から月見の時期だけに使う三方の専門店、茶筒の専門店なんて言うのもある。京都の骨董屋の目利きも日本一だと聞く。モノの価値を見る目を大事にし、ややもすればそうした素養の無い人は軽蔑さえ受けてしまう。そんな京都は、文化資本デフレとは無縁の街に見える。 
  

『「岡山都市ブランド」を育てるために、オーケストラを育てる、という発想への違和感

 岡山市の様々なビジョンにかかれている。「岡山の都市ブランド向上のために」オーケストラを育てるという発想
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「岡山市文化振興ヴィジョン H29~33版」より
 以前には無い発想であったから、私は一定の評価はをしたのだが、よくよく考えてみるとこの発想には、どうしても違和感が付きまとう。その違和感は「異性にモテたいから流行の服を買う」という発想に通じる違和感。その間に数段階飛ばしている大事なものがあるのでは?都市ブランドの向上って、そんなに簡単なもの?
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「岡山市文化振興ヴィジョン H29~33版」より
 この図を見てみると、違和感の正体がはっきりする。岡山市は文化芸術が「岡山が人を惹きつける 多様な価値を提供」し、すぐに「都市のイメージアップ」につながると考えているようだ。そんなに簡単なわけはない。    
 文化・芸術が都市のイメージアプに貢献するためには、文化・芸術に関する行政・市民の地道な努力と、大胆な「投資」があって、(シェレンベルガーのような)プロのアーティストを呼び込み、例えば音楽では、岡山フィルが全国でも評価されるような楽団になり、しかし、そのためには街の人々が一流の芸術へアクセスし、人々もそれに対して対価を払う土壌ができ、文化資本が循環する社会になって、「新たな価値を創造」し「多様な芸術家などの人材が集ま」って、その結果、もしかしたら都市のイメージがアップする、かもしれない。実際には、途方もないプロセスを間に挟んでこそ起こることだろう。
 この表からは、単に「岡山フィル」というオーケストラが、現状のままでも都市のイメージアップにつながっていくような短絡的な発想をしているように感じる。現在、岡山という街が陥っている「文化資本デフレ社会」に対する現状認識すらないのだ。
 岡山という街がオーケストラを抱えることによって得られる、真の意味とは何なのか?という問いとしては、違和感を感じざるをえないのです。

 オーケストラは、お金がかかる。楽器演奏と音楽表現に文字通り人生を賭けた50名もの職人集団である。お金がかかるのは当然。岡山が「文化資本デフレ社会」から脱却するために、岡山の人々の価値観を転換し、最高レベルの技と芸術性に対し、正当な対価を払うという豊かな文化都市へ舵を切りなおすために、オーケストラを育てるという「敢えて困難な事業に立ち向かう」ことに意義があるのだと思う。

 オーケストラがあることによる数値的な効果の分析は、次々回のエントリーに譲るとして、その機能面での利点は、社会・文化資本としてとても優れた機能を有することだと思う。オーケストラとしての再現芸術を市民に聴く機会を与え、シェレンベルガーのような「本物」の芸術を持った人々との交流の機会を与えることが出来る。個々の奏者もプロの音楽家として、ソリストから室内楽まで様々な需要に対応した音楽演奏を提供でき、指導者として子供の音楽体験を導くことも出来る。オペラやミュージカル、バレエ、演劇、映画に至るまで、生演奏で伴奏を行うことも出来る。今後はジャズやポピュラー音楽のアーティストとの共演も増えていくだろう。このように、オーケストラは万能の文化インフラなのだ。
 岡山市内に限らず、学校や病院、福祉施設にも出向いていける機動性もあるし、大阪や東京、あるいは海外に出て岡山のアピールのための演奏旅行に行くことも出来る。
 社会文化資本としてのオーケストラの役割は、今後、いっそう重要性を増してくる。オーケストラの「場」を作ることが出来る機能は、人口減少社会の行きつく先の「コミュニティの再編」局面での重要な役割を果たすだろう。


「本物」の体験は、自然体験だけでは足りない

 これは平田オリザさんの主張されていることのなのだが、文化資本、とりわけ「値打ちがあるものかどうか」を見分けるセンスや立ち居振る舞いなどの文化資本は、おおよそ20歳ぐらいまでに決定されるそうだ。子供のころの読書体験が言語的資本を培っていくのと同じように、この文化資本を培うためには、「本物」に多く触れていく、これ以外に方法は無い。「本物」に多く触れることで、偽物を直感的に見分ける能力が育ち、国際社会に出ていった時の自分自身のアイデンティティの確立にも資する。東京や関西圏など大都市には本物の文化資本に触れる機会が多く、岡山のような地方都市の子供たちは圧倒的に不利な状況に置かれている。

 『いやいや、岡山には自然がある。自然の中でも「本物」の体験ができる』という意見があるかも知れない。確かに、自然の中でも体験も、「本物の体験」だろう、そこに異論の余地はない。しかい、関西で生まれ育ってきた私が断言するのは、都市部でも「本物の自然体験」は豊富に出来るということだ。都市部では鉄道などの公共交通が発達しているので、例えば私の実家があるところは渓流遊びや滝遊びができるようなところ(六甲山系)だったが、休日には関西一円からそうした自然を求めて集まって来ていた。私の家から神戸や大阪への通勤時間は1時間を切っていたから、昼間は渓流遊びをしているガキが、夜には劇団四季を見たり、大フィルのコンサートに行ったり、ということが日常的に出来る(実際は、そんなに頻繁には連れて行ってもらっていないが、関西に住んでいたからこそ「生」の様々な舞台芸術を体験できたことは事実だ)。
 もちろん都心部在住では本物の自然体験は量的には少なくなるかもしれないが、交通機関が発達した都市圏の住民は、岡山の人々よりもアクティブなのは間違いないと思う。関西だと姫路から琵琶湖まで身近なレジャーを楽しめる、「明日は琵琶湖に行こうか?姫路城に行こうか?」という行動範囲なのだ。
 閑話休題
 こうした地方都市の子供にとって不利な状況は、オーケストラという窓口を持てば、19世紀以来の近代芸術最高の再現芸術にアクセスする手段を保有し、シェレンベルガーに代表される世界的な「本物」のアーティストと音楽を通じての会話体験によって、「本物」のシャワーを子供たちに浴びせることも可能だ。


プロの技を披露する人、プロを目指す人、聴く人見る人、応援する人、それらが岡山という地域の中で循環する社会

 私も含めた働き盛り世代は本当に忙しい。少ない余暇時間も、仕事のためのスキルアップのために費やされ、美術館に行ったりオーケストラをはじめとする舞台芸術を観たり、プロスポーツの観戦にいったりする時間が取れない。そんな人がほとんどではないだろうか?
 そして、岡山は都市としての吸引力が弱く、中心市街地で働いている人口が少ない。クラシックのコンサートでは土日はそこそこ観客が入るのに、平日の18:30開演のコンサートは大概がガラガラである。僕は今まで「そんな時間に設定している主催者が悪い」と思ってきたが、「働き方改革」が叫ばれる今、「18:30開演のコンサートに、たまにでも行けないような働き方こそが変わっていくべきなのではないか?」と考えを改めた。
 日本人はこれほどに働いているのに、労働生産性は低いままで、国際競争力も長期的には低下の一途をたどっている。「規格大量生産の時代は終わった。これからは付加価値を生み出し、高いモノでも買ってもらえる製品・サービスを売っていくことが必要だ」と、20年前から言われているが、過重労働で平日夜のコンサートにも行けないような働き方で、付加価値が生み出せるだろうか?
 岡山ではJ1リーグへの昇格を目指す、ファジアーノ岡山への応援熱が盛り上がっている。私の会社ではファジの試合がある水曜日はなるべく定時(17:30)で帰ろう、という文化が育ち始めている。水曜日にはユニフォームやタオルを持って出勤してくる人も見えるようになった。
 ファジアーノがJ1リーグに昇格してくれれば、これほどうれしいことは無いが、僕が一番良かったと思うのは、ファジアーノがこうした岡山の「アフター5」の文化を変えつつあることだ。試合を見に行く人は、残業することよりも、ファジのサポーターとして観戦に行く時間に価値を置いている、それに加え周囲の人も、ファジのサポーターの観戦に費やす時間の価値を認め、応援してスタジアムに送り出している。社会・文化資本が地域の中で尊重され、循環し始めていると感じる。


目指すのは、「文化デフレ社会」から脱却し、『文化・芸術資本の循環する社会』を創ること。
 このように市民の間にプロのスポーツチームを応援する、あるいはプロの芸術家の技に触れる、プロフェッショナル達が尊敬され、作品やパフォーマンスが正当に評価され、創作が喚起され、人々の居場所を作り、感動を呼び起こし、正当に評価された対価がプロフェッショナルの間に還流するという、『文化・芸術の循環する社会」を築く、それが岡山の街の目指すべきすがたである。その大きな波が起これば、岡山フィルの地位向上や資金の問題の解決、その結果としての岡山独自のオーケストラ文化の隆盛と楽団の実力向上への道が、おぼろげながら見えて来る。

 少し脱線するが岡山フィルの定期演奏会で毎回募集する「市民モニター」と称するコンサートのタダ券の配布。これもやめるべきだろう。1000円でもいいから身銭を切ってもらうべきなのだ。タダで聞きに来た客が(1階席の四隅の席が充てられるのですぐに分かる)コンサートが始まってまもなく、演奏の最中に席を立って扉を開けて帰ってしまうという現象を何度も目撃しているが、これは「タダで聴きに来ている行為そのものに駆動された行動」であるといえる。人がお金を払うという行為には、購入する物に対する敬意も含まれており、無償のモノには価値を見いだすことは心理的に難しいからだ。

岡山のロス・ジェネ世代が生み出してきた、「衣」「食」「住」の「本物志向」
 芸術・文化面では、まだまだこれからだが、ファジアーノに続いて「衣」「食」や「住」の消費社会では流れは変わってきている。2000年代後半ごろから、都心回帰へと人々の住まい方が変化したのと同時に、1970~80年代生まれの、バブル崩壊後に社会人になった、いわゆる「ロス・ジェネ」 世代を中心とした「本物志向」の消費に牽引され、空洞化していた市街地中心部や「役割を終えた街」の筈だった問屋町に雑貨やインテリア、ファッション関係の店舗が増え、職人の技術や仕事の価値を認めようという動きが拡がってきている。
 この世代はバブルまでの大量消費社会の洗礼を浴びておらず、青年期に価値観の180度転換を迫られた「バブル崩壊」「阪神大震災」「地下鉄サリン事件」を見てきた。流行に対して懐疑的で、自分が本当に気に入ったものしか信じないという消費傾向を持つ。アカセ木工の家具がこの世代に売れ、油亀のようなアートスペースが活気づいているのは、この世代がこうしたこだわり消費を牽引しているからだと思われる。

 そこに、2011年の震災以後の、東日本を中心とした移住者の急増や、ロス・ジェネ世代が消費者の中心としてイニシアチブを握る時代に入り(同時に岡山フィルの首席指揮者にシェレンベルガーが就任し、岡山フィルの快進撃が始まった時期とも重なる)、少しづつではあるが、「価値のあるものに対してはしっかり対価を払う」あるいは、価値があるかどうか自分では分からないものに対しても、「その価値が分かるように感性を磨きたい」という風に考える人々が急速に増えてきたと感じる。

 しかし、課題がないわけでは無い。

 これらの世代が読んでいる「オセラ」という雑誌がある。
オセラ2018年3-4月号 92号

オセラ2018年3-4月号 92号

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: ビザビ
  • 発売日: 2018/02/25
  • メディア: 雑誌


 「おとな、暮らし、ときどきプレミアム」を合言葉に、上質な大人のライフスタイルを提案している雑誌で、いわゆる従来の「タウン情報誌」から一線を画した誌面になっている。
 しかし、この雑誌には音楽文化、美術、アートなどの芸術・文化に関する記事が極めて少ない(ほとんど見たことがない)。
 雑誌の誌面は、その雑誌の読者層の鏡だ。岡山の「本物」消費を牽引している世代にとっても、芸術やアートを消費するハードルはまだまだ高いのだと思うが、やはり心の養分となる芸術・アートへの消費の高まりがなければ、なんとなく外側だけの本物志向に陥ってしまうのではないだろうか。「文化・芸術の循環する社会」への移行は、この世代の消費の広がりが不可欠である。 


『後楽園』を受け継いできた岡山だからこそ、「本物」を創造することは可能

 岡山フィルが、そんな文化資本の循環する社会の中で、次の世代に受け継がれていく、そんな姿が僕の夢だ。受け継いでゆく文化があるというのは素晴らしいことだ。自分たちが大事に育ててきたものが次世代に引き継がれ、自分が死んだ後も脈々と生き続ける。街の人々の精神安定作用にどれほど貢献することだろうか。岡山には、天下の名勝:後楽園を受け継いできた歴史があるのだ。


 次に、「文化・芸術の循環型社会」の中核となる、岡山フィル自身に必要なものは何か?について考えてみようと思う。


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サンフランシスコ人

「岡山市内に限らず、学校や病院、福祉施設にも出向いていける機動性もあるし、大阪や東京.....」

岡山から東京まで約660km....サンフランシスコからクリーブランドまで約4000km...
by サンフランシスコ人 (2018-03-24 06:49) 

ヒロノミン

>サンフランシスコ人さん
 距離の問題以前に、アメリカのような芸術家・支援者・聴衆の間を資本がぐるぐる回る社会が、できていないことに問題の根源があると思っています。
by ヒロノミン (2018-03-25 19:12) 

サンフランシスコ人

第二次世界大戦中も、クリーブランド管弦楽団は、州外の学校にも出向いていける機動性ができていた!

http://media.aadl.org/documents/pdf/ums/programs_19441112e.pdf
by サンフランシスコ人 (2018-03-26 02:36) 

離島の鯉党

今回も興味ぶかく読ませていただきました。ヒロノミンさんの主張は、岡山に限らず、地方が共通して抱えている問題点、その底流の問題を言い当てておられると思います。

よく、地域を変えるのは「よそ者」「ばか者」「わか者」といいますが、私はこの中の「ばか者」っていうのは、美術家や音楽家、陶芸家などの芸術家・職人だと思ってるんですよ。言葉は悪いですが、音楽馬鹿、とか、役者馬鹿、って一種の褒め言葉で使われるでしょ。
地域の「ばか者」たちが、じつはその地域ならではの付加価値を生み出していて、「よそ者」「わか者」がその価値を見出し、3つの「者」には入らない大多数の大人たちが、回し方を考える。ヒロノミンさんの言われる循環する社会とは、少し違うかも知れませんけど。

「わか者」が、時代や流行に左右されない、「本物」に触れて、感性を磨けるような環境を作るのは、大人の役目だと思います。

それから広島市内だって、文化芸術資本の循環する社会には、まだまだ遠いように感じます。素質のある音楽家は広島には、帰ってきません。海外から帰国後は、おおかた東京で活動されています。
広響もがんばっていますが、巡回公演なんかは無料券を配って、やっとこさ格好がつく、そんなコンサートも多いです。ご指摘のように、45分ぐらいの「新世界」が終わるまでの間でさえ、大の大人でもじっと我慢できずに帰ってしまいますね。すぐに理解できたり、すぐに気持ちのいい思いをさせてくれるものじゃないと、「価値がない」と判断される。それが今の社会なんでしょう。
by 離島の鯉党 (2018-03-26 16:36) 

ヒロノミン

>サンフランシスコ人さん
 戦後、日本はアメリカを手本として、工業を再興し経済を発展させましたが、文化や教育の分野について、なぜ深く学ばなかったのか?と思います。
 それにしてもセルが直々に指揮とは・・・
by ヒロノミン (2018-03-29 23:14) 

ヒロノミン

>離島の鯉党さん
 すみません、返事が遅くなりました。
 「よそ者」「ばか者」「わか者」の整理は本当に解りやすいです。「ばか者」というか、付加価値型のプロの専門職人の存在は、地域では当たり前だけれども、「この人たちがおらが街の『売り』や『アイデンティティ』になるんだ。という意識共有も必要になりますね。

 私が岡山で活動する音楽家の方からお聞きした話です。地方都市でリサイタルを開くと自然と(実績や知名度だけで)集客できる音楽家はほとんど居られません。何らかの営業努力をされているわけですが、人からの紹介でチケットを買っていただこうとお願いに行くと、「5000円?高い!君らの演奏にそんな価値があるか?」や、「タダ券くれたら聴きに行ってあげる」、挙げ期の果てには「5000円だったら、いまどきユ〇クロのダウンジャケットが買える」といったような規格大量生産の製品と比べられたりする。紹介ですからもちろんコンサートに来ている層の友人などが多い筈ですが、それでも、こういう心削られる場面に直面するようです。3~5歳から技術の研鑽に努め、音楽に人生を賭けた自分たちの演奏が、規格大量生産品と、比べられる。言葉を浴びせかけた人には、これが「屈辱的な言葉だ」という自覚すらないでしょうね。京都で、門掃きの1万円近い高級な箒に「こんなんホームセンターで1000円で売ってる」と言ったら馬鹿にされるでしょう。「この人、職人の手仕事や技術のことを何もわかってはらへん」と。

 それに拍車をかけるのが、公共部門(主に役所の発注)の仕事でも低予算を前提に、相当安い単価が設定されている→それに合わせて民間も値切る→付加価値型の手仕事が評価されず、職人・芸術家の流出→全国に同じような特徴のない都市群に埋没→次世代に付加価値を生み出す重要さの実感認識やセンスを磨くための本物体験が提供できない→職人・芸術家の住みにくい街の固定化、そういうデフレスパイラルが存在する。この状態を「文化資本デフレ社会」と勝手に名付けました。

 広島は岡山に比べると、間違いなく「文化・芸術資本」が循環しています。チェロのマーティン・スタンツェライトさんをはじめ、国の内外から魅力的な音楽家が集まる街で、オーケストラの集客も堅調です。プロの常設オーケストラがあるということは、事業規模だけで8億円、波及効果も含めたら15億円程度の地域内還流資本が存在するわけで、文化資本も日常的に当たり前のように循環しているのではないでしょうか。

by ヒロノミン (2018-03-30 06:37) 

サンフランシスコ人

「アメリカのような芸術家・支援者・聴衆の間を資本がぐるぐる回る社会....」

4/11 ナショナル交響楽団(ワシントンD.C.のオーケストラ)が拠点のケネディ・センターを出てワシントンD.C.の鉄道駅で演奏会....

April 11, 2018 1:00 PM - 2:00 PM

Full National Symphony Orchestra Community Performance
1–2 p.m., 50 Massachusetts Ave. NE

Led by Music Director Gianandrea Noseda, the National Symphony Orchestra plays a free lunchtime “Pop-Up” concert in the Main Hall of D.C.’s iconic Union Station.

NSO: In Your Neighborhood

http://www.unionstationdc.com/event/National-Symphony-Orchestra-Performance/2145503757/
by サンフランシスコ人 (2018-04-11 03:14) 

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