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マグノリア・サロンコンサート Ob:大森悠 Tp:秋月孝之 Pf岡純子 [コンサート感想]

マグノリア・サロンコンサート
オーボエ:大森 悠
トランペット:秋月 孝之
ピアノ:岡 純子

ヴィヴァルディ/2つのトランペットのための協奏曲ニ長調(Tp&Ob)
ハイドン/トランペット協奏曲(Ob)
サン=サーンス/歌劇『サムソンとデリラ』より「あなたの声で心は開く」(Tp&Ob)
モリコーネ/ミッション-ガブリエルのオーボエ(Tp)
コープランド/静かな都会(Tp&Ob) 

2016年12月10日 逸翁美術館マグノリアホール
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   昨日のセンチュリーの演奏が気持ち良すぎて昨晩は熟睡。目覚まし時計にも気づかず、ホテルのチェックアウト直前の11時まで寝てしまいました(笑)

 大編成の大フィルの翌日に、小編成のセンチュリーを聴き、最後は「室内楽なんかがあればなあ」と思ってアンテナを広げると、ありました!しかも、大フィルの秋月さんのトランペットと大森さんのオーボエが聴ける!ということで3連休の締めは、オーボエとトランペットとピアノという珍しい3重奏です。
 しかし、このお二人、昨日まで2日連続でショスタコーヴィチの10番を演奏していたんですよ(当然、トランペットもオーボエもハンパ無い出番の数々・・・)、オーケストラの奏者って本当にタフですよねぇ。
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 会場は阪急宝塚線池田駅から徒歩15分のところにある、絵に描いたような『閑静な住宅街』にありました。近くには阪急創業者の小林一三の邸宅もあることから、大正時代、大阪都心の煤煙と公害の都心部から、いわゆる田園都市を求めて逃れて来た裕福な人々のために作られた、高級住宅街開発の嚆矢となったところ。この、都心部と鉄道でつながった高級住宅街の開発ビジネスモデルは東急(田園調布)などに模倣されていく。

 コンサートは1時間程度の気軽な内容。しかし、演奏者は大フィルや関西フィルの首席級の奏者と、関西で名の知られた実力者ばかりで、どの回に行っても聴き応えのある内容。ホール内部は80席程度で、この出演者でこの人数では採算が合うはずも無く、阪急傘下の財団の持ち出しの事業なのでしょう。そして、それは阪急沿線の上品で落ち着いたイメージの維持に一役買っており、長い目で見ればペイできている。

 演奏の方は、このこじんまりとしたホールに響くトランペットとオーボエの音量はかなり強烈です。しかし、まったく耳障りで無く、お二人の吹く音色(ねいろ)に包まれる感じは本当に楽しい。
  秋月さんの音色は、秋空の抜けるような青空を思わせるような音。金管楽器なのに耳に障るような音が無く、木質感のある暖かい音がするんですよ。朝比奈晩年から現在までの録音を聴くと、特にブラームスやはりブルックナーの録音に、大フィルの音に溶け合いつつもあの暖かい音が聞こえてきます。
   大森さんが大フィルに入ったときは、その豊潤な音が衝撃的で(当時の大フィルにはいないタイプの音色)したが、一昨日の演奏でも、大フィルの木管のアンサンブルの中核といえます。今日のコンサートも、高音の抜けのいい素晴らしい音にため息しか出ません。

 今回のコンサートでは、通常オーボエが吹く曲をトランペットが、またはその逆を試みています。トークでは、オーボエとトランペットは倍音の構造や、息を送り込む管の狭さ、オーケストラの中では突き抜けた音を発する楽器で、よく似ているのでは無いか?ということで一つの実験を披露してくださいました。
 ベルリオーズの幻想交響曲の第3楽章冒頭、イングリッシュホルンとバンダのオーボエの掛け合い。このバンダの役を秋月さんがトランペットで演奏します。
 結果は、トランペットはやはりトランペットの音でしたが(笑)楽曲としての違和感は無く、音域や音の伸びはよく似ていました。
  演奏以外にも、話し出すと止まらなくなる大森さんのトークが面白く、こういう濃いキャラの方だったのか、という発見有り。
 アンコールはガブリエルのオーボエを、オーボエ&トランペットが交代で演奏。たいへん盛り上がりました。


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日本センチュリー響 いずみ定期No.33 飯森範親指揮 Vc:ヨハネス・モーザー [コンサート感想]

日本センチュリー交響楽団 いずみホール定期演奏会 No.33 ハイドンマラソン

ハイドン/交響曲第2番ハ長調
 〃  /チェロ協奏曲第1番ハ長調
 〃  /交響曲第50番ハ長調
 〃  /交響曲第88番ト長調「V字」

指揮:飯森範親
チェロ:ヨハネス・モーザー
コンサートマスター:松浦奈々

2016年12月9日 いずみホール

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 またまた来てしまいましたハイドン・マラソン。これで3回連続?関西地方の外からこれだけ通っているのって僕ぐらいじゃないかしら(爆)
 それもこれも、センチュリーのハイドン演奏がとにかく魅力があるから。難しいことを考えずに黙って座席に座っていればよい。極上のアンサンブルが極上のいずみホールの空間こだまし、頭の上から降り注ぐ。そして、ハイドンの天才的なアイデア・オーケストレーション・アーティキュレーションが、その愉悦を頂点まで導いてくれます。時間が短いからトイレの心配とかしなくてもゆったりとした気分で席に就ける。最高の2時間なんですよね。

  しかし今日のハイライトはヨハネス・モーザーのチェロ協奏曲だったかも知れません。大原美術館のギャラリーコンサートで、その才能を一度は耳にしたはずだったんですが、いやーすごかったですねえ。第3楽章なんてオーケストラに向かって挑発する挑発する、でもセンチュリーが見事に応えて(モーザーの挑発を受けてたった、松浦コンサートミストレスはじめ、センチュリーの楽団員さんの楽しそうなこと!)、これぞ生演奏の醍醐味、室内合奏だんの醍醐味、協奏曲の醍醐味でした。会場のボルテージの上がりっぷりは、ジャズの即興演奏のライブのような雰囲気でした。「大阪にセンチュリー有り!」を存分に実感しました。

 今回は最初期と中期、最後に後期の交響曲をプログラミング。2番はエステルハージ家に仕える前の1757年~59年の作品(一説には1761年作とも)、チェロ協奏曲は1761年の作曲、エステルハージ家に雇われた直後の作品。50番は1773年作曲で、そのころには同家の宮廷楽長に出世。88番は少し時代が飛んで1787年の作曲で、エステルハージ家時代最晩年の作品。ハイドン以外の作曲家で、同時期の曲と歴史上の出来事を並べてみると・・・

○2番は20代後半。1759年に亡くなったヘンデルはすでに1740年代には作曲のピークを過ぎていたし、大バッハの息子:C.P.Eバッハやグルックが活躍していた頃だが、独立した交響曲は書いておらず、オペラやオラトリオの中での「シンフォニア」というバロックの形式を守っている。1757年にプラッシーの戦いが、大陸では七年戦争の真っ最中で、イギリスの覇権が確立されつつある時代です。

○50番は41歳。モーツァルトがザルツブルグの大司教に反旗を翻して出て行く時期。ウィーンでは18歳年下で交流を深めていたサリエリが活躍。7年戦争で急速に力をつけたプロイセンとロシアによるポーランド分割(第1次)、アメリカ独立の引き金となったボストン茶会事件。世俗的・宗教的権威がまだま強力だったが、新しい時代への萌芽が見られる、そんな雰囲気か。

○88番は55歳、モーツァルトは「フィガロの結婚」や「ドン・ジョヴァンニ」といった後世に残る傑作群を作曲中。両者の交流も盛んでいわゆる「ハイドン・セット」の献呈も受けている。その31歳のモーツァルトに16歳のベートーヴェンが会いに行っている。時代はフランス革命前夜の静けさ、しかしマグマに突き動かされるように熱気を帯びていた時代。

 なんでこの年代を整理したかというと、前半の2曲と55番、88番に行くにしたがって、楽曲の内容が見事に変わっていっているのを、今回のコンサートで実感したからです。特に、88番の演奏が始まった時の響 に「これは、もう・・・新しい時代の花が開きかけている!」と驚いたんですよ。ベートーヴェン以後の楽曲が溢れている時代に生きる自分は、ハイドンの104曲の作品群は「どれも似たようなもの」としか感じていなかった。このシリーズ3回目にして、ハイドンほど時代の激流に対応し、絶えず変化していった作曲家は居ない、との感想を持ちました。

 そしてハイドンの交響曲を聴くと、シンフォニーのルーツがわかる。ハイドンが交響曲を自らの創作活動の柱の一つに据えようとしていた時代は、まだ同時代の作曲家はオペラやオラトリオに「シンフォニア」の形で管弦楽曲を置いていたに過ぎない。自然、「この交響曲を人々に楽しんでもらうために、いかに楽しめる『仕掛け』を入れていくか?」ということを考えたに違いない。
 その中で色々な試行錯誤があり、その試行錯誤が後世のシンフォニストに受け継がれる。50番の冒頭を聴いたとき。「これはモーツァルトの交響曲34番が始まったんじゃ無いか?」としか思えなかった。作曲年代は当然にハイドンの方が早い。モーツァルトはほとんどパクリすれすれの線を狙いながら、この50番の冒頭のアイデアを取り入れた。それだけハイドンの独創性と、その創作の有用性の証左でしょう。

 センチュリーの演奏。今回も好調を維持していた。いや「好調」という言葉を使うのは失礼か。センチュリーらしい極めてハイレベルで品格の高い演奏でした。これぞ、まさに大阪が生んだ格調高いセンチュリー・サウンドです。
 編成は第2番とチェロ協奏曲、そして第50番はいつもの6型対向配置。1vn6→vc3→va4→2Vn6、コントラバスはオルガンの真下に2本。88番は8型に増員。

 第2番の第1音が響いた瞬間からため息が出る(前回も同じことを書いたような気がしますが(笑)。ときおりヴィヴラートを抑えめでピュアトーンを響かせながら、極上のバランスで整った音楽が展開されていく。それにしてもこの曲が交響曲第『2』番とは!と驚いていたら、ハイドンの交響曲の附番は必ずしも作曲順とは限らないとのこと。だとしても初期の作品であることには違いが無く。優美なモチーフがしっかりとした構成の中に息づいていく。老獪さすら感じさせるソツの無い曲でした。
 2曲目のチェロ協奏曲は非常にロマンティックな旋律が魅力。モデラートで心地よい速さで奏でられる快活な第1楽章。ロマンチックな第2楽章。そして、第3楽章はチェロの超絶技巧(解説には「18世紀中ごろとしては、破天荒なほどの技巧が駆使されている」との記述)に合いの手を入れるように、オーケストラからも仕掛けられるチェロ独奏付き合奏協奏曲のようになっている。
 冒頭でも述べた通り、ソリスト良し!オーケストラ良し!の痛快な名演!一つ文句を言わせていただくと、「曲が短すぎるがな!」ということ、こんな幸せな時間はもう10分ぐらいは続いて欲しい。心底そう感じた見事な協奏曲でした。

 3曲目の50番は、何かの式典がはじまりそうな華麗な冒頭に始まり、旋律が法則性を持って幾何学的に進行していく、あの折り目正しいハイドンの音楽が展開していく。楽章構成もアダージョ→アレグロの第1楽章、アンダンテの第2楽章、メヌエットの第3楽章、プレストの最終楽章。既に交響曲の形が完成されている。それでいて、第3楽章の中間部では弦のトップ同士の室内楽的な掛け合いがあったり、バロック時代の残り香もある。センチュリーの演奏は軽快で贅肉の全くない引き締まったサウンドで、それでありながら音に艶と独特の輝きがある。これは、本当に見事な音だと思う。弦や木管だけでなく、トランペットの祝祭的な響きにも酔いしれる。

 4曲目の88番は、これは編成を2人づつ増やしたことで、華やかさが増した。これまでオーソドックスな指揮だった飯森さんが、この曲から結構緩急をつけはじめるんですよね。それによって、この曲がバロックの時代から解き放たれて、古典派も通り越して、ロマン派の薫りすら漂っていたんです。ハイドンが時々使う休止は和音の美しさを、ホールの残響を使って聴衆に聴かせるという仕掛けであることが解る。これってブルックナーの手法ですよね。第1楽章の対位法を駆使したモチーフの展開のさせ方は、明らかにベートーヴェンを経由してドイツ・ロマン派の作曲家に受け継がれていく。そしてその華やかな展開部はセンチュリーの緻密なアンサンブルで見事に表現されていく。いやー気持ちええ~、ホンマに気持ちのええ時間。こんな理屈抜きで気持ちのいい音楽を、年に4回も聴ける大阪の人は幸せや。

 「お前、今更何を言うとるねん!」と言われそうですが、飯森&センチュリーは、このスタイルを守りつつ、104曲すべて違う表情をホンマニ描き分けるんやなあ・・・と、当たり前のことに、ただただ驚嘆しています。今回は、88番が始まった時に、時代のドラスティックな転換点が見えた。「時代が変わった」ことを感じさせてくれ、近代ヨーロッパの歴史上も非常に重要な時間を長生きした、ハイドンの人生を感じさせてくれました
 そして1曲の中に秘められた物語(楽章)の描き分け。この88番の第1楽章の華やかさ、第2楽章の刹那さ、宮廷音楽というより民俗音楽に近い第3楽章、ほとんどロマン派の…シューマンの交響曲の最終楽章のような疾走感と起伏のある第4楽章。なんとエッセンスの多様であること、そしてセンチュリーの表現の引き出しの多様であることか。
 
 ハイドン104曲のシンフォニーを演奏する企画が今回も含めて8割の近くの客席を埋め続けるなんて、東京か大阪でしか出来ないし、センチュリーのサウンドはこれぞ品格のある大大阪時代の音楽。大阪を現在牛耳る政治家さんたちは、お金が右から左に動くだけの「カジノ」を中心とした、金持ちが有り余る金をとことん非生産的な事に使う「IRの誘致」に躍起だけれども、いつか、足元にある財産に気づく日が来るでしょうか?例えば、このセンチュリーのサウンド。こんな音はなかなか聴けませんよ。前日の大フィルだって70年間培ってきた独自のサウンドはまだ錆び付いてなんかない。こうした、「税金を投入する価値無し!」とされた財産が、その価値が再発見されんことを祈ります。


大阪フィル第504回定期演奏会 フルシャ指揮 Pf:河村尚子 [コンサート感想]

大阪フィルハーモニー交響楽団 第504回定期演奏会(1日目)

ベートーヴェン/ピアノ協奏曲第4番ト長調
ショスタコーヴィチ/交響曲第10番ホ短調

指揮:ヤクブ・フルシャ
ピアノ独奏:河村尚子
コンサートマスター:田野倉雅秋

2016年12月8日 フェスティバルホール
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 会場の入りは大阪交響楽団定期(ザ・シンフォニーH)と重なったこともあってか、65%ぐらいの入りだったでしょうか?今回、フルシャの指揮に初めて接してみて、「これは将来、確実にトップ10指に数えられるような大巨匠になる」と確信しました。
 次回、大フィルでフルシャのタクトを見れるかどうかわからない、次回はもしかしたら1万数千円出さないと見られないかも知れない、それなのに空席がこれだけあると少しさみしいですね。
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 前半は12型2管編成でした。河村さんは6月の倉敷でのバーミンガム市響とのラフマニノフの3番の演奏が、それはもう凄まじいものだったので、かなり期待していました。 2階席の2列目の右翼席で、ピアノに隠れてピアニストの顔しか見えない席。実はこの席が曲者だった。ピアノの音が鳴った瞬間、「あれっ?」と思った。別の部屋でピアノが鳴っているような、そんな感覚。徐々に耳がなじんで来ましたが、それでも遠くで鳴っている(間接音しか聞こえない)感じは常にありましたね。このホール、箱がドでかい分、ピアノ・ソロを聴くためには、中央よりに座らないと行けません。ショスタコーヴィチのことも考えて金管の音を直接受けない位置をわざわざ選んだのがいけなかった。 

 それでも、河村さんのピアノ、やはり良かった。音の芯と輪郭がはっきりしていて、ペダルの使い方は、あくまで音の輝きを放つために使うなど、音像がぼやけることがない。河村さんのピアノに付けるフルシャのタクトも見事だし、逆にオーケストラの音に呼応して河村さんの音もシンクロする。先ほど座席のことでネガティブなことを書いたが、この巨大ホールでアルペジオの一つ一つの音(しかも間接音)が極めてクリアに響くというのは凄い技術ですよね。アンコールはスカルラッティのソナタヘ長調だったんですが、これも非常にクリアな音を響かせていました。

 オーケストラがその風が広葉樹を撫でるような音を出すと、呼応して水滴が泉に落ちるようなみずみずしい音で応え、逆にピアノが強い槌音のような打鍵で仕掛けると、オーケストラは硬質なアタックで応える。あるべき音がそこに有り心地よいベートーヴェンの形式感を感じさせると同時に、決して「協奏」的ではないこの曲を一体となって作り上げていく。

 それにしても大フィル、見事な音です。ピアノの序奏に続いてオーケストラが入ってきた瞬間、中欧のオーケストラのような深みのあるしっとりとした弦にはっとする。「今日は大フィルの音が出ている!」そう感じる。
 第2楽章の冒頭の弦のユニゾンも大フィルの弦を堪能。なんといういぶし銀の音!第3楽章はリズムとテンポは、軽快だが音尻までしっかりと鳴らすスタイルは、大フィルと合っている。正統的な王道を行くベートーヴェンの音楽を堪能しました。

 さあ、後半のショスタコーヴィチの10番。今年はこの曲を取り上げるオーケストラが多いようですが、僕も2月に広島交響楽団で聴いていて、今年2回目。高関さんのタクトによる広響の演奏は見事なもので、「現在の大フィルにあれを凌駕するものを期待して良いのか?」若干不安を持っていた。

 編成は16型(1Vn16→2Vn14→Vc10→Va12、上手広報にCb8)でチェロバスを厚めにした3管編成。元々16型4管編成の大フィルとしては中核のレパートリーといっていい。

 まず、フルシャの解釈。この曲にまつわる様々なエピソードに振り回されない、という姿勢は徹底されていたように感じた。殊更おどろおどろしくしたり、音に深い意味を持たせよう、という強い意図では無く、音楽そのものが持つ響きの美しさや不気味さやリズムを浮かび上がらせる。
 最も印象的だったのは、楽譜に書かれているであろう音価を大事にしきちんと伸ばしきる。それによって大フィルの持つ深みのあるサウンドを生かし切ったこと。それはあの高速な第二楽章でも徹底されていて、弦の音を「ザッザッ、ザザザッ」と叩き鳴らすのではなく「ズワッ ズワッ」と音価いっぱいに音尻にアクセントを置く、これを高速テンポで奏でる大フィルも凄いし金管も木管も音の出し入れとバランスが絶妙なセンスを感じた。ここでは打楽器陣がやや置いていかれる感じがあったものの、何かに追い立てられる雰囲気が良く出ていたので結果オーライでしょう。

 第1楽章では、2度上昇の3音+3度上昇の3音の不気味なモチーフから、フレーズの一つ一つに稜線を描くような抑揚をとる。ダイナミクスを極めて広く要求し、一方で最弱音の部分は神経質にならない塩梅を保つ。
 第1楽章のクラリネットがDEsCH音型の変形モチーフに先導される、中間部。もっとも盛り上がる部分を、フルシャはインテンポに、かつ端々まで目の行き届いたタクトで進めた。2月に広響で聴いたのと同じ曲なのか?と思ったほど、この曲で初めて聴く響きに満たされた。まるでバッハの音楽を聴いているような、いや逆に現代音楽のミニマルミュージックのような形式美・様式美がそこにあった。
 スネアが登場して、ヴァイオリン群の高音のユニゾンがフェスティバルホールの空間に濃密に響き渡り、そして震撼した。弦の音でこの巨大ホールが震撼したのを聴いたのは、ホールこけら落とし公演のマーラー『復活』以後、初めてのことでした。あのときはかなり力業で持って行った感があったが、今回の大フィルは軽々と弾いているようだ。打楽器・金管がかなりの音量で鳴っても、それを突き抜けて弦の音が聞こえてきて、高度なバランスを保って響く。
 これほど濃密な響きを出し続ける楽団員は、相当しんどかったのでは?と思いますが、客席から見ていると、奏者の全員が極めて弾きやすそうに弾くんですよ。オーケストラの持っているポテンシャルが引き出されていく気持ちよさに、楽団員が陶酔しているようにも見えました。

 これは一段も二段も違うステージの演奏だと、会場の皆が高揚していく中での、第3楽章。ショスタコーヴィチの思い人(秘書をしていたエリミーラ・ナジーロヴァという女性)のイニシャルが隠されているというフレーズが何度も登場。何度も登場するホルン信号をホルンの高橋さんが表情豊かに吹き分ける。と同時に、この音楽は凍てつくロシアの荒涼たる大地を表しているようにも感じる。
 中間部のおどけたワルツも殊更に皮肉めいたニュアンスを入れることをせず、音楽そのものに語らせる。ホルンの高橋さんの音が神がかっていて、最初は遠くから、もっと遠くからの最弱音、一方で最高潮で放たれたホルン信号の迫力たるや!完璧!ショスタコーヴィチは何を言いたかったのだろうか?と思わずには居られない。思い人への思いを決壊させたかのようにも思えるし、一人孤独に耐える男の叫びにも聞こえる。長く感じるこの楽章が全く長く感じない。

 第4楽章の冒頭は、第3楽章からの連続性、その中に徐々に暖かい空気が感じられる。速いテンポでサクサク進むようで、一つ一つの音符に神経が行き届いている。それがこの曲の隠された狂気を見え隠れさせる。
 途中で空気が一変、すばしっこいテンポになっても弦の豊かな響きはいっそう輝きを増していく。歯ごたえは最後まで衰えなかった。時折、テンポのギアを上げる時に、「もっともっと」とフルシャが腕を振り回すのを見ていると、もう少し切れ味のあるテンポの切り替えを要求していたのかも知れない。2日目公演は、1日目よりもさらに練られた演奏だったようだ。
 この第4楽章なんて弦だけで無く、木管の音までが生気を得て輝きを増している。確かに大フィルのサウンドだけれど、こんなに重厚で輝かしいサウンドが出るものなのか?

 このオケの特質を見抜いて濃密なサウンドを引き出したフルシャが凄いんでしょうが、こうした人が首席客演指揮者でもいいから就いてくれたら、と思ってプロフィールを見たら、なんとあの名門バンベルク交響楽団の常任指揮者に就任予定とか。指揮が終わったらあんなに礼儀正しく初々しさすら感じがさせるのに、やはり若い才能は放ってはおかれないんですね。
 プログラムを見ると、陣容は相変わらず整っておらず、苦しい。今回も27人ものエキストラが乗っている。しかしそれでも大フィルらしさ全開の演奏が展開されたというのは、フルシャのタクトだけでなく、やっぱりこのオーケストラ一流のプロ根性でしょう。本当に最高の音楽をありがとうございました。

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カメラータ・ザルツブルグ 岡山公演 モーツァルト「レクイエム」 [コンサート感想]

岡山シンフォニーホール25周年記念
カメラータ・ザルツブルグ 岡山公演

モーツァルト/ヴァイオリン協奏曲第4番 K.218
  〃   /レクイエムニ短調 K626

管弦楽:カメラータ・ザルツブルグ
ヴァイオリン独奏:堀米ゆず子
ソプラノ:秦茂子
メゾソプラノ:アンナ・モロツ
テノール:セサル・アリエタ
バリトン・アイザック・ガラン
合唱:岡山バッハカンタータ協会
合唱指揮:佐々木正利

2016年11月19日 岡山シンフォニーホール
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※Okayama Art Summit 開催中ならではの、リアム・ギリック作品と岡山シンフォニーホールとの共演

 風邪をこじらせて止まらない咳のため、コンサート出撃を1か月以上自粛しておりました。久しぶりに聴いた、それも強度が誇る合唱団とワールドクラスの独奏陣、それにそれに「黄金のカメラータ・サウンド」!本当に酔いしれました。何より満席で我らの街の首席指揮者:シェレンベルガーを迎えられたのが嬉しい!聴衆の温かい拍手に団員さんも笑顔・笑顔で応えてくれました。

 カメラータ・ザルツブルグはシャンドル・ヴェーグの時代の繊細で柔らかいサウンドから、ロジャー・ノリントンのシャープなサウンドへと色々な歴史をたどってきていますが、シェレンベルガーの作る音楽はヴェーグの時代を感じさせる柔らかい繊細なサウンドを基調に、ダイナミックな場面では6型の室内オケ編成とは思えないくらいかなり迫力がありました。

(11月20日 追記) 

 カメラータ・ザルツブルグは、モーツァルト音楽教育の総本山であるとともに、モーツァルト研究のメッカである、ザルツブルグ・モーツアルテウム音楽大学の教授と学生によって設立、ザルツブルグ音楽祭でのホストオーケストラも務め、シャンデル・ヴェーグの時代の「カメラータ・サウンド」はもはや伝説となっている。モーツァルトのスペシャリスト達です。
 一方でプログラムを見て驚いたのが、日本人系のお名前を4人も拝見したこと。ザルツブルグ・モーツアルテウム音大の系譜に連なる奏者でないと入団できないと思い込んでいたのですが、ノリントンの時代にモーツアルテウム音楽院出身者以外からの採用を積極的に行っているとのこと。

 会場は完売御礼こそ出なかったものの。ほぼ満員でした。シェレンベルガーは我らが街の首席指揮者ですから、なんとか満員になって欲しいと思っていましたが、これで岡山のファンにとっては面目が保たれましたね。

 当日は、楽団員さんと思しきグループの方が、芸術交流やその関連イベントに足を運んだりされていて、コンサートも満員で迎えられたことで、「アート感度の高いスモールシティ」として大いにアピールできたんじゃ無いかと。倉敷公演もあった前回来日の際には倉敷の美観地区も訪れているでしょうから、岡山のいいイメージを持って帰っていただけたのではないでしょうか。

 そして、このコンサート、プログラムが凄いですよね。後半のレクイエムで声楽4人+合唱団も投入するのに、前半には独墺系楽曲の重鎮、堀米ゆず子を登板してくるわけですから、どこまで力が入ってんねん!って話ですよ。ホンマ。

 まずはモーツァルトの5曲のヴァイオリン協奏曲の中で、最も美しくかわいらしい4番。20歳に満たない年齢で書かれたこの曲は、モーツァルトの天才性を存分に感じられる曲で、ペガサスが天を駆けるかのような爽快感があります。出だしはですね、正直、「あれっ?!」と思ったんですよ。悪くは無かったです、しかし、フツーに上手いオーケストラがちょっといい音を出した、そんな感じに受け止めました。ところが数分たつと、あの匂い立つような「カメラータ・サウンド」の香りが漂いだし、第2楽章での美しさは特筆ものでした。立ち上がりに時間がかかったのは大きな原因があって、の日は最低気温16度の最高気温22度の雨天。梅雨でもここまで蒸し暑くはないぞ、というほど湿度が高かったです。かといって空調を入れるほどの気温では無く、会場の湿度もかなり高かった。

 母国のオーストリアでは経験したことが無いような環境だったんじゃないでしょうか?満員のお客さんがいっそう湿度を上げたことも多分にあるでしょう、はじめは手探りのアンサンブルだったに違いありません。しかし、さすがに世界屈指の室内オーケストラ、ましてやモーツァルト演奏に関しては人後に落ちない存在であらねばならない、そんな矜持がそうさせるんでしょうか。瞬間瞬間にみずみずしい音楽が立ち上がっていく。ハーモニーが疾走しながらも猫の目のように表情が移り変わっていく。シェレンベルガーもオーケストラをある程度コントロールする岡山フィルと時とは違って、オケとソリストから生まれるニュアンスを、どう料理していくかを楽しんでいるかのようです。いやはや、ものすごいモーツァルトです。若い頃のモーツァルト独特の怖いものは何も無い、才気あふれる音楽の対話と冗談を楽しみました。なかなかこの「饒舌さ」は味わえるものではありません。

 湿度が高い悪条件は堀米さんも同様、高温の部分で音がかすれる場面はあったにせよ、そういった条件をまったく問題にしない、さすがの風格と演奏度胸。充分な存在感でありながら、カメラータ・サウンドの邪魔をしない雑味を加えない、あの輝くようなアンサンブルに見事に付けていく。岡山フィルと共演した、ブラームスのコンチェルトで見せた、大地に根が生えたような圧倒的な重厚なソロとは全く違った表現を堪能しました。

 メインはモーツァルトのレクイエム。モーツァルトの合唱曲に初めて接したのはアヴェ・ヴェルム・コルプスだった。クリスマスケーキを目当てに近所の教会にクリスチャン一家の友達に連れていかれた時に、合唱隊が歌っていて、なんて綺麗な音楽だろうと思ったことを覚えています。
 モーツァルトの合唱曲は、人間か書いたものでは無いような、まるで神が授けたもうたとしか思えないような無垢な美しさに満ちあふれていますが、このレクイエムも極めつけでしょう。

 そして、現在も某CMで使われている、前半のハイライトとなるディエス・イレ(怒りの日)の激しさ、後半のサンクトゥスの輝かしさを筆頭に、一大ドラマになっている。この日演奏されたのはジュースマイヤー補筆版では無く、バイヤー補筆版とのこと。

 最近まで僕はこの曲が苦手だった。どの演奏とは言えませんが、60~70年代の大巨匠時代の重厚な演奏で苦手になってしまった。しかしその後、色々なアプローチの演奏が出てきて、すっきりと聴かせる演奏が主流になりようやくこの曲が好きになってきたところでした。やっぱりモーツァルトに過剰な重々しさは似合わない。

 今回のカメラータ・ザルツブルグ&岡山バッハカンタータ教会の演奏の全体を貫いていたのは、疾走感であった。モーツァルトの音楽にしばしば感じられる、まるで馬車に揺られるような疾走感。語弊を恐れずに言うと、ビートが効いた感じ。シェレンベルガーが好んで使う表現では「音楽からパルスを感じた」ということになるでしょうか。かといって、オーケストラの音が軽量級だったかというと、決してそうではなく、セクエンツィアの第3曲「ラッパは驚くべき音を」やサンクトゥスあたりのダイナミックさは「これが6型室内オーケストラの音か?」と思うような荘厳な音で聴衆を圧倒した。

 合唱団も見事な演奏。男声パートが人数が少ないが、全体のバランスは良かった。メンバー表を見ると、プロの声楽歌手たちも名を連ねており、そりゃあこの完成度もさもありなん。終始乱れることのないアンサンブルと、主旋律と内声部それぞれがパースペクティブに整理され、オーケストラも含めてあるべき音があるべき姿で鳴って、なんともいえない高揚感で満たされ本当に鳥肌が立った。

 声楽は、このホールでの歌唱はお馴染みになった秦さんが、堂々の歌唱で、メゾのモロツさん、バリトンのガランさんもさすがに本場の名歌手の本領を発揮して素晴らしかった。テノールのアリエタは声質が若く(実際に26歳とまだ若い)、少し違和感があったもののオペラのテノールのような華は、この曲にはそもそも無用であって、充分に役割を果たした感じだった。

 この曲に感じるもう一つの謎・・・モーツァルトは果たして信仰心があったのか?コロレド大司教に代表される、当時の宗教権威に対する反抗心はあったことは確実で、バッハの受難曲やカンタータのような、神への絶対的帰依というものが音楽から感じられにくかった。しかし、この日のコンサートを聴いて、宗教的権威への信仰心は気迫だったかも知れないが、音楽も含めたこの世に存在する者の創造主への信仰の心は確実にあった人なのだろうなあ。と感じた。もっともこの曲はモーツァルト自らの手では完成しなかったのであるが・・・

 余談ですが、東京公演を聴いた方の感想の中に合唱団のピッチについて指摘する人が居たが、岡山公演では全く感じなかったし、この合唱団においてピッチの違和感を感じたことなど一度もない。岡山からなぜアマチュア合唱団を呼ぶのか?という疑問も呈されていたが、この合唱団は前述のとおり、声楽で飯を食っている人も多く参加し、ヴィンシャーマンやリリング、シュライヤーからも評価され、ドイツまで遠征してCDも出している、いわばセミプロの合唱団だ。
 前情報とは恐ろしいもので、そういった知識がなく単に「岡山くんだりから来たアマチュア」という先入観があると、ピッチも合わなく聴こえるのか?東京と地方、音楽の本質について考えさせられる記事だった。



 この岡山公演が今回の来日ツアーの最初だったみたいですね。明日は岡山バッハカンタータ協会も帯同して東京公演、他にもモーツァルトのヴァイオリン協奏曲全曲演奏会(杉並公会堂)、なんていうのもあります!
 武蔵野文化財団のチラシが物凄くツボに嵌りました・・・
カメラータ・ザルツブルク1-thumb-1000xauto-7149[1].jpg

 まあ、でも岡山はプログラムは違いますが、『炎吹き出すモーツァルトの祭典』『本気度MAXで臨む特別公演』というのも、コンサートを聴いた後では、あながち大げさでもないように感じますから、東京方面の皆さんはぜひ検討の価値アリかと思いますよ。


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岡山芸術交流コンサート 岡山市立オリエント美術館 [コンサート感想]

岡山芸術交流 × おかやま国際音楽祭2016 コラボコンサート 
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Vn:近藤浩子、長坂拓己
Va:杉山みゆき
Vc:山本玲子

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 岡山フィルの団員さんによる、恒例の秋シーズンの室内楽のコンサート。今回は岡山芸術交流の開催期間と言うことで、オリエント美術館中央ホールに展示されたワイヤーのような現代アート作品の横での演奏となりました。

 毎回、このホールでプロの演奏を聴くと感心するのですが、この会場は石造りの神殿のような建物で、聴衆にとっては音楽が神々しく鳴る感じで気持ちがいいのですが、残響過多だと演奏者にとっては自分の音が聞こえにくいでしょうし、少しでも音に雑味が入ると、その音がずっと響いてしまう。

 その点、今回のメンバーにとっては勝手知ったる会場ということか、今回のコンサートも見事な演奏で楽しませてくれた。特に「真田丸」は、三浦文彰さんのソロの部分を近藤さんが演奏、これが聴き応えがあった。ツボにはまったのが杉山さんの司会で、脂の乗った(決して油ぎった・・・ではない!→会場に居た人しかわからないネタ)演奏でも楽しませてもらいました。
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 こういうコンサート、もっと増えてほしいですね。岡山は「オーケストラのある街」ですから。
 岡山芸術交流にちなんで、現代音楽を色々な場所で演奏する(打楽器アンサンブルで、スティーブ・ライヒの曲をやるとか)ような企画があれば、乱立する地方初現代アートイベントとの差別化になるし、音楽愛好家と美術愛好家の市民同士の交流にもなるのでは?と思います。

 あいちトリエンナーレでは、そういうのをやってるみたいですね。http://aichitriennale.jp/about/index.html


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Alto de Campagne Vol.3 岡山公演 [コンサート感想]

Alto de Campagne Vol.3 岡山公演

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テレマン/4つのヴィオラのための協奏曲第1番ト長調
ルクレール/2つのヴィオラのためのソナタニ長調
ビゼー(編曲:對馬時男)/オペラ「カルメン」メドレー
 ~ 休憩 ~
對馬時男/4つのヴィオラのための四重奏曲第2番「夏たけなわ」(世界初演)
ヘンデル(編曲:ターティス)/2つのヴィオラのためのパッサカリア
ノックス/4つのヴィオラのためのマラン・マレ変奏曲(スペインのフォリアの主題による)

棚橋恭子、中村翔太郎、中村洋乃理、村田恵子

2016年9月23日 ルネスホール

 Alto de Campagneは「田舎風のアルト」の意。4人の出身者はそれぞれ鳥取・三田・笠岡・赤穂ということで、4人とも田園風景に馴染んだ田舎出身ということで結成された、珍しいヴィオラ四重奏のアンサンブル。

 棚橋さんはフリーランスだが、両中村さんはどちらもN響次席奏者、村田さんは都響の奏者ということで、4人とも極めてハイレベル。これほどのレベルのヴィオラ奏者が4人も揃うというのは、岡山のような地方都市ではなかなか見られないです。私は去年に続いて2回目の鑑賞。

 ヴィオラの音は理屈無しにいい音です。このカルテットがレベルが高く、どんな音を出すのかというイメージが豊かで、かつ統一されているから、これほどのいい音が鳴るのでしょう。アンサンブルでは深みとコクのあるサウンドが楽しめ、1曲家のテレマンにはよく登場した、ユニゾンではこんなに透明な音に重なるの?というほど、透明感のあるサウンドに酔いしれます。この4名の演奏を聴くと、なんで今までヴィオラ四重奏というジャンルが開拓されてこなかったのか?(実際に、ヴィオラ4本のための楽曲は極めて少ない、とのこと)不思議になります。

 2曲目のルクレールは、棚橋さんと中村洋乃理さんのデュオ、5曲目のヘンデル(ターティス編)は、中村翔太郎さんと村田恵子さんのデュオ。特にヘンデルの曲をベースに、ヴィオラの達人:ターティスが編曲した曲は、たいへんな難曲のようで、聴いてる方も力が入りました。

 ビゼーのカルメンの編曲も、ヴィオラのツボを心得た聴き応えのある編曲だったし、前回に引き続いての對馬さんのヴィオラ4本のための四重奏曲の第2弾、「夏たけなわ」は懐かしい日本の旋法を取り入れた非常に聴きやすい曲で、第3楽章の夕立なんて本当に雨がぽつぽつ→一気にザーッと降る感じが出ていて驚きました。
 最後のノックスの曲は、ヴィオラの特殊な奏法のデパートのような曲で、村田さんの事前の解説もあり、興味深く聞かせていただいた。

 普段は内声をやることが多い楽器だからか、どの演奏も聴き手の耳に心地よいアンサンブル。激しい場面もありましたが、それでも耳に届く音は尖りのないヴィオラ独特のしなやかな音。ヴィオラの音を「聴く」、というよりも、途中からは頭を空っぽにして「音を浴びる」ようなイメージで聴きました。
 鳥取・姫路・三田・広島・東京とツアーで巡っていくようです。お近くの人はお勧めのコンサートです。

 アンコールはパッヘルベルのカノン、そして「ふるさと」。


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京響スーパーコンサート 広上淳一指揮 Vn:五嶋みどり [コンサート感想]

京響スーパーコンサート

モーツァルト/歌劇「後宮からの逃走」序曲
チャイコフスキー/ヴァイオリン協奏曲ニ長調
  ~ 休憩 ~
リムスキー=コルサコフ/交響組曲「シェエラザード」

指揮:広上淳一
管弦楽:京都市交響楽団
ヴァイオリン独奏:五嶋みどり
コンサートマスター:豊島泰嗣

2016年9月11日 京都コンサートホール大ホール
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 盛りだくさんのコンサート、終わってみたら2時間35分の長丁場、もうおなか一杯のコンサートでした。
 まず、五嶋みどりのチャイコフスキーのコンチェルト。この方のヴァイオリンはもう別格です!1フレーズ1フレーズを疎かにしない、といったらありきたりの事のようですが、この方は本当に疎かにしないし、聴く方も疎かに聴くことなんてできない。弱音部の繊細な表現は、客席の固唾を飲む音が聞こえてきそう。別世界の静寂を作り出しています。
 演奏開始前からオーケストラからただならぬ緊張感が漂っていて、演奏が始まるとその緊張感が客席に感染。何なんでしょう?このピリピリする緊張感。僕の妄想ですが、もしかしたら、明日、この世界が滅亡することが決まっていて、僕以外の人はそのことを知っている。だから世界のみどりさんのヴァイオリンを聴きに来た。美しくも凛として、運命を受け入れようとしているような、異常な昂奮。そんな世紀末的なチャイコフスキーのコンチェルト。
 それに付ける京響の伴奏も、文句な!!世界一流のソリストを相手に、プロのオケマンがそのプライドに賭けて、全力で支え・協奏する。するとこんな稀有なコンサートになる、その証明のような演奏でした。

 メインのシェエラザードは、いやはや、もう何も言うことが出来ないですね。脱帽です、別格です。広上さんの就任記念定期で取り上げられたこの曲、木管金管のソロも多く、キャッチーな旋律と劇的な展開が、広上&京響のカラーに合うのか、節目節目に演奏されてきましたが、これほどの水準の演奏を聴けるとは・・・。
 広上さんのタクトのもとで、全てに於いてパフォーマンスがハイレベルで、ため息しか出ない。 京響を聴く度に「凄い凄い」を連発してますが、もう、京響に対して「凄い」という言葉を使うことは失礼かもしれません。これが今の京響のまごうことなき実力。
 広上さんは「国内トップの実力に成長した」とおっしゃったが、海外の一流どころとも充分に渡りあえる演奏でした。こんなオーケストラがある京都市民の皆さんが本当に羨ましいし、だからこそ、空気の読めない唐突な拍手や、カーテンコールのボルテージが最高潮の時に、椅子をバッタンバッタン音を立ててホールを後にする聴衆の姿に落胆…(大多数の人は最後まで昂奮を共有しましたが)。

(9月17日、更新)

 9月9日の夕方から京都入りして、初秋の嵯峨野を中心に観光。雨上がり後の秋晴れということで、空気が澄んで景色が本当に美しかった。その上に旅の最後に五嶋みどりのヴァイオリンの音に心を射貫かれ、京響の絢爛豪華なサウンドの渦に身を任せる。最高の旅になった。

↓嵯峨野の大河内山荘からの比叡山と京都市内。空気が澄んでいました。
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 相方もこのコンサートを本当に楽しみにしており(というより、チケット争奪戦に参戦して見事に勝ち取ったのは相方)、前回、二人で京響を聴いたのは去年の6月の小泉和裕指揮のブルックナー4番。僕はその後何回か聴いているので、相方に「その時も凄かったけど、そこからワンランクも2ランクも上を行く演奏になると思うで」と予言していましたが、京響のパワフルさ・まばゆいばかりの音色の輝きは、去年どころか僕が前回聴いた5月の定期演奏会から比べても1ランク上を行くものでした。

 まず、1曲目のモーツァルトからして音が違います。最先端のピリオド奏法ではなく、あくまでモダンなモーツァルトですが、オーストリアのオーケストラが出しそうなしなやかな音色を出しています。演奏の精度はまだまだこんなもんじゃない、という感じではありましたが、その高貴な響きだけで満足させるものでした。

 冒頭にも書いたとおり、五嶋みどりのチャイコフスキーのコンチェルトが、この日の目玉で、一般発売後数分で完売だったようです。会場の前には「チケット売ってください」と書かれたボードを持った人が居て、ヤフオクやオケピなどが定着した現在では、こんな光景は珍しいでしょう。同じプログラムで行われた東海地方ツアー3公演も全て完売だったというから、みどりさんの音楽を渇望している人がいかに多いかがわかる。

 コンサート前のプレトークで、自らNPO法人の代表をつとめ、音楽を通じて障害者と社会をつないでいく様々な取り組みを行っている。実際、岡山の障害者福祉施設の「旭川荘」のミュージックアカデミーでも五嶋さんの活躍を目にしたことがありますが、五嶋さんにとってはこうした活動はボランティアのレベルに止まらず、演奏活動と車の両輪を成すぐらいの大事な営みなのだろう。

 演奏は、それは凄まじい緊張感に貫かれ、どこまでも美しく広がりのある音楽だった。チャイコフスキー独特の甘い甘いメロディーラインを強調することなく、弱音部や高音部、第二楽章などの緩徐部分に、今回の演奏の真骨頂があったように思う。広上さんが以前ラジオで、音楽の前では指揮者も演奏者も全てをさらけ出されてしまう、ということをおっしゃっていた。世界屈指のヴァイオリニスト:MIDORIの一流の技と音を聞いたと同時に、まさに五嶋みどりという人間の全てがさらけ出されたすごみがあった。たとえ世界が明日終わっても、今、この瞬間に集中する。これほどの演奏を前にしては、聴いている人間の無用なプライドや凝り固まった概念や知識はガラガラと崩れてしまう。

 実は今回のコンサート、曲目を見たとき、少しがっかりしたところがあった、「なぜ、ブラームスやシベリウスじゃないのか?」と・・・。ところが、演奏がふたを開けてみると、食傷気味になっていたチャイコフスキーのコンチェルトが、まったく違う世界があることが分かった。甘いトロトロのメロディーは、全くの濁りのない皓然とした音列に姿を変え、緩徐楽章のメランコリックな世界は、菩薩が見守る天上の世界のようだった。そこを京響のフルートやクラリネット、ファゴットが、菩薩の使徒のように宙を舞う・・・。広上さんもオーケストラも、五嶋さんの描き出す世界を全力で表現し、見事に描ききった。京響がこのレベルのオーケストラだからできたのだと思う(協奏曲の前の、尋常ならざる緊張感は見ている人間もピリピリと伝わってくるものがあったが、あれこそ「MIDORIの世界を描ききる」というプロのオケマンとしての矜持がにじみ出たものだったろう。チャイコフスキーさん、「もう飽きた」なんて思って本当にすみません。あなたが作った音楽はもっと奥が深かったことを、MIDORIさんに教えられました。

 最終楽章での五嶋さんとオーケストラの掛け合いも見事であった。京響も高速テンポの追い込みをものともしない。音楽的には真剣での斬り合いのようなぎりぎりのせめぎ合いがあった演奏だったが、技術的にはオーケストラは極めて安定していた。以前聴いた、五嶋みどり&バイエルン放送交響楽団とのベートーヴェンのコンチェルト。そのときのBRSOにもひけを取らない見事な伴奏を見せてくれました。

 アンコールも真剣モード、1曲目はバッハの無伴奏パルティータ第2番からサラバンド。おそらく2曲目は予定外だったと思うが、とにかく拍手が鳴り止まないのですよ。同じくバッハの無伴奏パルティータ第3番からプレリュード。その演奏の後、会場からは期せずして2000人の大きな感嘆のため息が漏れた。

  後半は、客演コンマスとして新日本フィルの豊島泰嗣さんがコンマスを務めたが、このソロがさすがだった。特にチェロの山本さんとの掛け合いは絶品。
 冒頭に書いたとおり、僕が広上&京響のシェエラザードを聴くのは、2008年の常任指揮者就任記念定期以来だったが、この8年の間にもう全く別のオーケストラです。以前から名手揃いで特に繊細で緻密な表現力が素晴らしいオケだったが、今は音の迫力・押し出しが違う。音がホールの中をうねるように、渦を巻いて聴衆を魅了する。広上さんが振ると京響は本当に自然体でもの凄い演奏をやってのける。

 広上さんの体全体を使ったタクトで、ダイナミクスはナチュラルにかつ劇的に変化し、テンポは自在に流れるように変化し、1ミリの綻びも生じない。各パートのキューも、「ここで出ろ!」という感じではなく、「さあ、この流れに乗って皆さんのタイミングで~」と軽やかに合図、それに答えて弦は芳醇で高雅な音を出し、小谷口・高山・上野(大フィルからの客演でしたね)・中野の木管の名人たちが、絶妙のタイミングで入って自信を漲らせてソロを張る。
 どんな映画や演劇よりも、音楽・・・ただ音楽だけでドラマティックな音楽絵巻物を魅せて頂いた。

 今回の演奏のハイライトは第2楽章と第4楽章だろうと思う。第2楽章のトロンボーン→トランペットで開始される中間部の動機が登場し、弦のピチカートをバックに奏でられるクラリネットのソロ(小谷口さんのソロ、やっぱり絶品だった!)。そしてインテンポでVn2部の刻みの中でチェロ・ヴィオラが動機を奏で、弦2部は強いピチカートで心臓の鼓動を会場に響かせる。木管打楽器の先導するマーチもほれぼれする音。
 映像の力を借りるが、要するにこの部分ですね(うーん、ピチカートが弱い)。
https://youtu.be/17lEx0ytE_0?t=16m45s
 あの高貴で煌びやかなサウンドは、まるで中欧の名門オーケストラが奏でるシェエラザードのような輝きと風格があった。

 京響は、京都市の直営から財団法人による運営に移行し、シネマコンサートや、X Japanのhideなど、ポピュラー音楽のスターたちと共演したりして、「さすがに北欧・アメリカでオーケストラの経営に関わってきた広上さんやなあ」と、その斬新な取り組みに関心を持って見ていたが、そういったある種の「異種格闘技」の経験が色々な事が貪欲にオーケストラに吸収されているようで、表現の選択肢の圧倒的な多彩さ、イマジネーションの豊富さがこのシェエラザードでわかりました。

 クラシック音楽館で、京響が取り上げられたときに、リハーサルでの広上さんのユーモアあふれる(しかし、抽象的な表現・・・その回は「道路工事のドリルのようにドンドンドンと勝手にリズムを刻んで入っていく感じですね~」という面白い表現をされていた)喩えに、記者が「抽象的な表現なので、人によってイメージが異なってくるのではないですか?」との質問に対して、ヴィオラの高村さんが「違っていていいんです」と答えていたのが印象に残っている。100人のオーケストラに100人のイメージがあってもいい、そして楽譜に何が書いてあるか、そしてそれをどうやって音にしていくか、それは人生を賭けて技を磨いているプロの奏者が一番よくわかっている。広上さんは各奏者の個性を損なわず、オケのメンバーの能力を信頼し、自由なイメージを一つの方向性に収斂させ、一気に音楽のエネルギーに変えて客席を巻き込んでいく。それは再現芸術というよりも創造芸術といっていいのだと思います。

 その広上さんがカーテンコールの最後に「これからも京響を支えてください、皆さんの支えが無いと京響は生きていけないんです!お願いします!」と深々と頭を下げたのが強く印象に残った。これだけ楽団の実力を高め、定期演奏会を2日開催に持ち込むまでに聴衆を集めてもなお、広上さんの頭の中には「まだまだ経営基盤は盤石じゃない」との思いがあるのだ…。アメリカで楽団の経営難と、リストラに苦悩する楽団員に直面したり、京都の隣の街では大衆が選んだ政治勢力により、『街の顔』だったオーケストラが危機に瀕している。経営再建に奔走しているのは、かつての京響の常任指揮者だ。会場では、広上さんのユーモアと取ってる節もあって笑いも起こったが、広上さんは本気なのだと思う。
 

 一点、とてもとても残念だったのは、演奏後にしばしの静寂を求めるステージ上に対して、そんな空気を切り裂くようなフライング拍手・・・。あれはあんまりだ、あそこで広上さんが腕を下ろすまで静寂に包まれたら非の打ち所のないコンサートになったのに・・・。フライング拍手をした人は猛省すべき、これは芸術破壊行為、仏像に傷を付けるようなものです。

 アンコールは武満徹の「3つの映画音楽」から「他人の顔 ワルツ」。フライング拍手にがっかりした心を癒やしてくれました。あんな目に遭わされても、舞台上から「皆さんが支えてくれないと、オーケストラは生きていけないんです、引き続きお願いします」と頭を下げたマエストロに、京響の聴衆はどう応えていくのか?私も「芸術破壊行為」だけはしないように心してまた行きたいと思います。


アンサンブル・レ・ペッシュ [コンサート感想]

ルネスクラシックシリーズVol.6  アンサンブル・レ・ペッシュ
~郷土岡山が生んだ4人のオーボエ奏者たちとファゴット奏者による珠玉のアンサンブル~

バッハ/小フーガト短調 BWV578
クロンマー/2本のオーボエとイングリッシュホルンのためのトリオヘ長調
ジョリヴェ/オーボエとファゴットのためのソナチネ
岩村雄太/オーボエ四重奏のための「風のある情景」
ラヴェル/クープランの墓
  ~ 休憩 ~
多忠亮/宵待草
アンサンブル・レ・ペッシュのための坂本九メドレー(編曲:米倉由起)
ニュー・シネマ・パラダイス・メドレー(編曲:津上眞音)
バーンスタイン/ウェストサイド・ストーリー

Ob:板谷由起子、津上順子、沼佳名子、近藤那々子
Fg:児玉光生

2016年8月22日 ルネスホール

 月曜日夜の室内楽演奏会ということで、「ま、当日券で充分だろう」と思っていましたが,甘かった。行ってみると満席寸前!このホールで一番キャパが稼げる、長辺に舞台を置く配置だったにも関わらず、学生さんが補助席のパイプ椅子に座らされるなど、超満員でした。来年の公演は前売券の購入が必須。

 とにかく板谷さん(広響首席)と近藤さん(フランクフルト歌劇場管首席)が上手い!この二人の演奏を聴くだけでもチケット代を払って余りある。そこに沼さん(岡山フィル)と津上さん(瀬戸フィル)のが入ると、絶妙のアンサンブルに仕上がる。ファゴットにドイツで活躍中の児玉さん。

 出色だったのは、まずクープランの墓。沼さん・津上さんの岡山組がイングリッシュホルンに持ち替えての5本の管によるアンサンブルは、本当に色彩豊か。練習・リハーサルで様々な意見が出されて、よく練られたのか、一つとして同じバランス・色彩感のハーモニーは無く、目くるめく色彩の移り変わりに鳥肌が立ちました。
 近藤さんとファゴットの児玉さんによるデュオで演奏されたジョリヴェ。ジョリヴェの曲は、大阪クラシックで野津さんのソロ・フルートによる「5つの呪文」で虜になり、もう一度生演奏で聴けて僥倖でした。独特の呪術的な世界は病みつきになる。お二人の超絶技巧も見事という他ない。

 前半は純クラシック曲ながら、後半は聴きなじみのあるプログラム。個人的には、全曲、純クラシック曲が希望ですが、酷暑の夏、こういうプログラムもリラックスして楽しめてよかったかも。
 来年も開催を期待します。


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岡山大学Jホールレインボーコンサート Vol.33 [コンサート感想]

岡山大学 Junko Fukutake Hall レインボーコンサート Vol.33
~岡山から世界にはばたく若きヴィルトゥオーゾ達にエールを~

Vn:福田廉之介
クライスラー/ジプシーの女
  〃   /愛の悲しみ
  〃   /中国の太鼓
フォーレ/子守歌
モンティ/チャールダッシュ
クライスラー/ウイーン奇想曲
サラサーテ/ツィゴイネルワイゼン

Vn:長坂拓己
バルトーク/ルーマニア民族舞曲
ラヴェル/ツィガーヌ

Pf:中桐望
ショパン/ピアノソナタ第3番
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 午後から夏休みを取って岡山大学鹿田キャンパス内にあるJunko Fukutake Hall(通称:Jホール)へ。会場は大盛況。400人ぐらいは入っただろうか?既にピアニストとして地位を築き始めている中桐望に加え、地元の好事家の間で話題沸騰中の天才少年、福田廉之介、アンサンブル・セフィロトなど室内楽を中心に実績がある長坂拓己の3名が一堂に会する、ということで岡山フィルの団員さんをはじめ、多くの音楽関係者の方の姿が見られました。

 まず、福田さん。メニューイン国際コンクールジュニア部門での優勝以来、中学生にしてソロコンサートを何度も成功させている、今、岡山で最も注目されているヴァイオリニスト。僕は生演奏で聴くのははじめてでしたが、いやはや恐れ入りました。
 もう10代半ばにしてソリストとしての存在感は充分。素人耳ですが、既に技術的な穴は全く無いように感じる。表現の引き出しも多彩で、聴衆をどんどん魅了していく。
 岡山出身のヴァイオリニストといえば、現在、海外の室内楽のコンクールを総なめしている「クァルテット・ベルリン=トゥキョウ」の第1ヴァイオリニスト:守屋剛志さんの名前があがりますが、福田さんの演奏は、守屋さんに続く世界で評価されるヴァイオリニストへ確実に歩んでいることを感じさせます。
 チャールダッシュやツィゴイネルワイゼンの超絶技巧を涼しい顔で弾いて、聴衆を沸かせたと思ったら、愛の悲しみで、なんとも奥の深い表現を見せる。末恐ろしいヴァイオリニストです。

 次に長坂さん。情熱的な演奏で、ヴァイオリンの弦が切れる、というハプニングがあったほど。しかし、素人耳で聴いても、技術的には課題を多く抱えていることが分かる。ただ、もっと技術を高めたい!という欲求があるから、単身・ハンガリーで修業を積んでいるのでしょう。今後の進化に期待したい。ただ・・・
 音楽を聴きに行くことが好きだから、そして岡山の演奏家にもっと活躍してほしいから、ここからはあえて厳しいことを書きます。まず、彼が醸し出す全体的な雰囲気が良くない。聴衆へ向けたお辞儀一つをとっても、後半に出てきた中桐さんの美しい所作と比べると、なんとなくルーズな雰囲気がある。服装がだぶついていて演奏中も姿勢が悪く、全体的にだらしない雰囲気が漂っている。また、福田さんのように、大きな呼吸感で客席を巻き込んでいくようなことが無く、彼の呼吸感が客席に伝わってこない。
 彼に必要なのは正しい姿勢と呼吸を身に着けることではないかと思う。座禅・茶道・合気道・・日本には姿勢と呼吸法を矯正する様々な文化がある。回り道に思えることでもブレイクスルーの契機になることはある。
 それから服装と髪型は聴衆の感性にも影響を及ぼす。髪型で個性を主張するというのは、聴衆の心理的ハードルを上げる。例えば(例に出して申し訳ないが)及川浩治や田村響のような圧倒的なテクニックとオーラがあれば、金髪も演奏者の個性の一つとして印象に残るだろう。しかし、奇抜な髪型で目を引いた演奏者が技術的に物足りなかったら・・・、誠実で真面目な服装の演奏者よりも不満は大きくなる、ヘタをしたら「二度と足を運んでやるものか」となるものだ。
 クラシックのコンサートのチケットを購入するボリュームゾーンは、40代~70代だろう。クラシック音楽の演奏家として生きて行く、ということは、人生の酸いも甘いも噛み分けたこうした世代の大人たちに、身銭を切らせて、時間を使わせて、足を使わせて会場に来させなければならない。この厳しい事実を彼は自覚しているのだろうか。後半に登場した中桐さんの一本筋の通った気持ちの良い所作や姿勢、華やかだが清潔感のある服装や髪形。これらは大いに参考になったはず。

 休憩後には中桐さんのピアノ。彼女の所作は本当に美しく、マイクを使ってのお話の内容も知的でショパンへの思いを感じさせるもの。演奏を始める時の集中力と背中越しでも感じられるオーラ。どれをとってもソリストとしての資質は盤石です。
 僕は、ショパンが本当に苦手で、海外・国内の名だたるピアニストの演奏でも、演奏中に他の事を考えて我に返る自分に愕然としたり・・・。マーラーやブルックナーのシンフォニーなら、70分であろうが90分の長丁場であろうが、1秒たりとも集中力を切らすことが無いのに・・・。ショパンとは本当に相性がよくない。唯一、120分ずっと集中して聴けたピアニストは横山幸雄さん。
 しかし、中桐さんのショパンのピアノソナタは(今回、1曲だけだが)そういったことが無く、集中して聴けた。本当にいい曲だ。感情に過度に溺れることが無く、一音一音大切にし、作曲者へのリスペクトが伝わってくる演奏でした。ピアノもセミコンサートサイズで、万全な環境ではないはずだったが、そんなことを跳ね返す素晴らしい25分間だった。


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日本センチュリー響いずみホール定期No.32 飯森範親指揮 pf:小山実稚恵 [コンサート感想]

日本センチュリー交響楽団いずみホール定期演奏会No.32  ハイドン・マラソン
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ハイドン/交響響第9番
モーツァルト/ピアノ協奏曲第9番「ジェナミ」
 ~ 休憩 ~
ハイドン/交響曲第27番
  〃 /交響曲第70番

指揮:飯森範親
ピアノ独奏:小山実稚恵
コンサートマスター:荒井英治

 6月にセンチュリーのハイドンマラソンに初めて参加。その(もはや健全な麻薬と言ったら差し支えがあるか)極上サウンドに惚れ込み再び参加。
 改めて実演に接してみると、こんな高水準な室内オーケストラを4500円で聴ける喜び。この極上のサウンド、すごいよセンチュリー響。
 いずみホールのふかふかの椅子に美を沈めて聴く、輝かしくもしなやかでたおやかで、それでいて何が起こってもびくともしない(センチュリー、上手いから何も起こりようがないんですが)堅牢なアンサンブルを聴く安心感。27番なんてめちゃめちゃアグレッシブな演奏なのに、サウンドのまろやかさはいささかも損なわれず、古典派交響曲を聴く手応え歯応え耳応えに、70番を聴き終わった瞬間に「余は満足じゃ」と言ってしまいそうになりました。
(8月15日 追記)

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※開演前に撮影
 お客さんの入りは9割5分。キャパ800人のいずみホールとはいえ、ほぼ満員の盛況。客席の雰囲気も非常に良好で、皆さん集中しつつもリラックスして耳を傾ける。
 今回のハイドン、3曲とも本当に素晴らしすぎです!1曲目の9番の冒頭から、それは象徴されていた。冒頭の3つの音の輝かしい音、マイルドにブレンドされた木管と弦、すっきりとしつつも厚みのある弦のトレモロ。センチュリーから発せられる音楽のどれもこれもが非常に練られていて、超ハイレベルかつ絶妙のバランスと味付けを効かせてくる。これを客席で聴いていると本当に気持ちがいいのですよ。
 続いてモーツァルトのピアノ協奏曲第9番。最近の研究で、「ジェナミ」というスペル・発音が正しいことがわかってきたそうです。
 小山さんのピアノは先月につづいての鑑賞。チャイコフスキーやラフマニノフ弾きという一般的なイメージがよりも、僕は小山さんのは、このモーツァルトやシューマンが聴きものだと思っています。ソリストもオーケストラもモーツァルトの一筆書き・天衣無縫さの魅力を引き出した好演でした。座席の位置が悪く(中段の最右翼の席)、演奏をする小山さんの手元が全く見えませんでしたが、肩から上を見ているだけで指の周りまで透けて見えるような不思議な感覚になりました。
 演奏の内容とは別に、ひとつ感じたこと。モーツァルトの音楽とハイドンの音楽の違いがこれほど違うのか!ということです。前述のとおり、モーツァルトは「一筆書きですらすらと書ききった魅力」というものがありますが、ハイドンの構築美と職人技、そして絶妙なアイデア・遊びの奥深さをセンチュリーのこのシリーズで知ってしまうと、モーツァルトの初期の楽曲というのは、どうしても聴き劣りする、というのが正直な感想でした。
 27番の両端楽章はまさに疾風怒濤。センチュリーも一気呵成に突っ込んでいく、それなのに音のまろやかさやハイドン独特の幾何学的な美しさの世界はいささかも損なわれないことに心底痺れた。第2楽章のすべてノンビブラートでの演奏。次代の趨勢とはいえ完全なピリオド演奏というのは僕はあまり好きではないのだが、こういう効果的にノンビブラートのピュアトーンを使う演奏は、本当に心が洗われる。8型~10型のセンチュリーは何でもやってしまう器用さがあります。

 最後の70番、一度聴いたら忘れない変則的なリズムで開始するこの曲。生演奏のインパクトを差し引いても、手持ちのドラティ&フィルハーモニア・フンガリカ、フィッシャー&オーストリア=ハンガリー・ハイドン管、両名盤を凌駕する完成度を誇った演奏。これほどのアンサンブルの厚みと機動力と、しなやかさを鼎立させた演奏は無いのではないか?トランペット・ホルンがとにかく上手い。ティンパニ・木管も負けていないし、弦部隊もすべてのプルトの奏者の実力がハイレベル。世界中見渡しても、現時点でのモダン楽器によるハイドン演奏のトップレベルにあると感じた演奏でした。

 今回の3曲を聴いただけでも、ハイドンというのは後の作曲家に膨大な影響を与えていったのかよくわかる。27番の両端楽章はシューマン2番のスケルツォにつながっているように思うし、70番の変則的なリズムはニールセン3番などを思わせる。まさにシンフォニーの源流。モーツァルトの41番の大フーガもハイドンの70番がなければ、存在しなかったのでは、とも思う。

 そして2回接しただけでわかるセンチュリーが描くハイドンの世界の深化。6月のシリーズの演奏会よりも、なおいっそうレベルの高い演奏になっていた。まるで伝統工芸品のようなディテールまでの作り込み、そして泉のように湧き出る豊かなニュアンス、全てが深化している印象を受けました。6月の演奏だって相当レベルの高い演奏だったのに、「まだ上に行けるの!」と驚嘆するしかない。終演後も、まるでブルックナーの交響曲を聴いた後のような、客席の熱さと拍手喝采。センチュリーのメンバーも皆さんもかなり手応えがあったのだろう。顔が紅潮し、たいへんな満足感に満たされている様子でした。
 休憩中や終演後の雰囲気も本当に良くて、たぶん質の高い常連客がしっかりついているのでしょう。まさにセンチュリーのハイドンは、格調高く上質な、しかも極めて饒舌な大阪らしい音楽でした。
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 今も堺筋沿いや中之島に残る瀟洒な大正建築。あるいは阪神間モダニズムと言われた文化人たちのサロン、その後いったん焼け野原になった後に朝比奈隆を中心に据えて、大阪の文化人たちが支援し築き上げた関西の音楽文化。センチュリーのハイドンはその正統たる系譜に並ぶものだと思う。
 朝比奈隆はベートーヴェン・ブルックナー・ブラームスで、音楽の「モダンシティ・大大阪時代」を作り上げた。センチュリーはその特色を生かしてハイドンで大阪の音楽文化の正統的系譜を進んでいる。

 やはり大阪にはドイツ音楽がよく似合うのです。おそらく飯森さんは、こういった大阪の歴史や文化をかなり研究してこのシリーズを企画した。休憩時間のサロン的空気は、僕が子供時代にフェスティバルホールの赤絨毯のラウンジで羨望をもって見つめたあの空気と同じものです。その空気に、今、(僕は大阪の人間ではないけれど)当事者・時代の共有者として立ち会えている。このコンサートで得られる幸福感・満足感はそうしたところからも来ているのだと思います。

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