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シェレンベルガーのメリーX’mas 岡山大学Jホール [コンサート感想]

 2017 Jホール・レインボーコンサート Vol.49
 『シェレンベルガーのメリーX’mas』
 
マンフレディーニ/クリスマス協奏曲(ソロ:高畑壮平、近藤浩子)
マルチェロ/オーボエ協奏曲(ソロ:シェレンベルガー)
トレッリ/クリスマス協奏曲(ソロ:高畑壮平、近藤浩子)
 ~ 休 憩 ~
J.S.バッハ/オーボエ・ダモーレ協奏曲(BWV1055)(ソロ:シェレンベルガー)
リチョッティ/協奏曲第2番(弦楽合奏)
J.S.バッハ/オーボエとヴァイオリンのための二重協奏曲(BWV1060)(ソロ:シェレンベルガー、近藤浩子)
 
岡山フィルハーモニック管弦楽団弦楽アンサンブル
コンサートマスター:高畑壮平
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 第九の記事より先にこちらを更新、第九は強烈な印象を残したので、忘れることはありません。後ほど更新します。
 
 10月にエリシュカの最終来日公演(大フィル)とイブラギモヴァの協奏曲演奏(日本センチュリー響)を聞き逃し、先週はゲルギエフ&マリインスキー劇場管@高松のチケットをフイにしてしまって、イマイチ不完全燃焼だったこの秋のコンサート巡りでしたが、捨てる神あれば拾う神あり、日曜日(バリバリの出勤日)の岡山フィルの第九を聴くことができ、本日は無理やり半ドンにしてシェレンベルガーと岡山フィルの公演を聴くことが出来た。第九の時にチラシが入っていて、やっぱりこのメンバー、このプログラムは聴きにいかにゃーおえんですよねぇ。
 
 今日の岡山フィル弦楽アンサンブルのメンバーは1stVnが高畑コンマス、奥野さん、石原さん、田中さん。2ndVnが入江さん河野さん、澤田さん。Vcは山本玲子さん、Cbは嶋田真志さん。チェンバロに小川園加さん、というメンバー。
 
 Xmasと聴くと、日本人の僕はすぐに浮かれた気分になってしまう訳だが、前半の2曲の「クリスマス協奏曲」は、祝祭的な中にも敬虔な祈りのような雰囲気を湛えていて、Xmasはあくまでキリストの誕生を祝う日なんだなあ・・・と今更ながらに噛みしめる。
 岡山フィルの弦楽アンサンブルは、シェレンベルガーさんが絶対の信頼を置く首席コンマスに、精鋭のベテランメンバー、気鋭の若手で構成されていて、なかなかの好演を聴かせる。高畑さんと近藤さんのソロの掛け合いの見事な音楽を聴いていると、今後はこの両コンマスが岡山フィルをますます発展させていくことは間違いないと確信させられる。
 しかし、やはりシェレンベルガーのソロは今回も凄かった!マルチェッロはバロックの作曲家だが、オーボエ版パガニーニのコンチェルトか!と突っ込みを入れたくなるような超絶技巧と高速パッセージや、第2楽章のメランコリックさ(映画にも使われるほど、名曲なんですね)などは、もはやロマン派のようなドラマチックさに溢れていた。第1楽章で「いや~さすが、シェレンベルガーやなあ!」と惚れ惚れさせられ、第2楽章の味わい深い音色にうるっと来て、第3楽章の超絶技巧でも魅せる魅せる。
 
 日曜日の第九と今日の前半の演奏について、岡山フィルは本当によくなった、と感慨にふけっていたが、後半の1曲目が、どうもうまくない。シェレンベルガーのオーボエは流石の一言だったが、寄せ木細工のような幾何学的なバッハのオーケストレーション、しかも少人数という厳しい状況に、十分に対応しきれていない。バッハの音楽は、少しのズレがきっかけで全体のアンサンブルが定まらなくなる危険を孕む、そんな場面が散見され、吹きながらも少し心配そうにオーケストラを振り返るシェレンベルガーの姿が印象に残った。
 まだまだ、シェレンベルガーさんに小編成のアンサンブルを鍛えてもらわないといかんなあ・・・

 それにしても、オーボエ・ダモーレって、なかなか聴く機会は無いし、それもシェレンベルガーの演奏っで聴けて、これだけでも今日無理してでも来て良かった。もう少し朴訥とした音だというイメージだったが、シェレンベルガーの手にかかると、これほど切れ味のある演奏ができる楽器なのか・・・と驚いた。「シェレンベルガーのオーボエ・ダモーレを聴いた」というのは、のちに自慢できる場面もあるだろう。
 
 後半2曲目は、トッププルトだけが残り、2-2-2-1-1の編成に。シェレンベルガーはお休みで、指揮者無しの高畑コンマスのアイコンタクトでの弦楽八重奏。これは見事な演奏だった。これを聴くと、先ほどのバッハは単純に弾き込み不足・リハ不足だったのかもしれない。オーケストラではファーストを弾く入江さんがセカンドに座ってよく歌う演奏を聞かせ、これまた歌心にかけては負けていられないとばかりに高畑コンマスの音楽と融合する。前半の近藤さん演奏も含め「これが、これからの岡山フィルの音の核になる音楽なんだなあ」と思いながら聴いていた。
 
 最後のバッハのオーボエとヴァイオリンのための協奏曲。シェレンベルガーとこれまで岡フィルのコンサートミストレスを張ってきた近藤さんがソロを取る。これが本当に熱い演奏になった。
 首席指揮者とそのオーケストラのコンミスという立場をお互い脱ぎ捨てての真剣勝負、一人の音楽家同士の作り出す2つの世界が、時に対峙し、時に融合する。シェレンベルガーがこれまた鬼のように正確なピッチとフレージングで演奏し、演奏の正確性とテクニックの面では近藤さんが一歩譲った感はある(というか、オーボエ奏者:シェレンベルガーという怪物と、すべてにおいて互角に渡り合えるヴァイオリニストなんて一握りしかいないだろう)、しかし、二人のソロに導かれた音楽は、バッハの幾何学的な、あるいは宇宙的な世界にを描き出し、その迫力に圧倒された。
 終演後に、近藤さんに惜しみない拍手を送ったシェレンベルガーの姿と、会場の盛り上がりがすべてを物語っていたと思う。 
 
 しかし、このホールでのコンサートはいい演奏になる。シェレンベルガーさんが以前、語っていたように、彼自身がこの会場で演奏することを楽しみにしていることも大きい。特別に音響がいいわけでも居住性が高い(会議用の椅子ですから・・・)わけでもないけれど、最先端のデザインの建築物に包まれて、日光が降り注ぎ、ガラスを通して外の世界を感じながら聴くと、素直に自分の心を開いて、その音楽が作り出す世界に没頭できるように思う。
 そして。これはシェレンベルガーも狙ってやっていたのだろうが、岡山フィルには新・首席コンマスの高畑さんだけじゃなく、近藤さん、入江さん、他の奏者にも素晴らしい駒が揃っている。オーケストラとしての定期演奏会だけじゃなく、シェレンベルガーと高畑コンマスは、色々なことをやるんじゃないか?そんな予感のするコンサートでした。

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岡山フィル ベートーヴェン「第九」演奏会2017 [コンサート感想]

ベートーヴェン「第九」演奏会 2017


ベートーヴェン/「エグモント」序曲
  〃    /交響曲第9番ニ短調「合唱付き」


指揮:ハンスイェルク・シェレンベルガー

管弦楽:岡山フィルハーモニック管弦楽団

首席コンサートマスター:高畑壮平


ソプラノ:浜田理恵

メゾソプラノ:福原寿美枝

テノール:松本薫平

バス:片桐直樹

合唱:岡山第九を歌う市民の会

合唱指揮:渡辺修身
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 今回のチラシ、デザイン(特にレイアウト)がめちゃめちゃカッコいい、ですよねぇ。


 予約時にいつもの特等席がすでに埋まっていたので、左サイドバルコニーの席に座ってみたら、これが大正解だった。シェレンベルガーとタクトと、それに反応するオーケストラのコンタクトが手に取るようにわかる。ファースト・ヴァイオリンも誰がどの音を出しているのか、弱音部は特によくわかる。たまには違う席に座ってみるもんです。でも、よくよく考えたら大阪のザ・シンフォニーホールや京都コンサートホールでは、ほとんどこの位置で聴いているんですよね。


 シェレンベルガーが岡フィルの第九を振るのはこれで2回目、しかし、前回はこれまでの『第九』で積み上げてきたもののうち、いい部分を研ぎ澄ます一方で、リズムや音のフレージングに大きく手を入れ「作為的な劇的さ」を極限まで削ぎ落とし、シェレンベルガーが本場で演奏し作り上げてきたベートーヴェンの最終交響曲そのものが持つドラマを、岡山に移植する挑戦的な演奏だった。そのため、大きな感銘を受けると同時に、オーケストラも合唱も十分に咀嚼しきれていない部分があったことも事実。


 今回は、特にオーケストラ演奏において前回粗削りで突破していった部分も、細部にまで念入りに作り込まれたものだった。


 編成は12型2管。下手(しもて)から1stVnが12→2ndVnが10→Vaが8→Vcが6で、上手(かみて)奥にコントラバスが6本。トランペットとトロンボーン、ティンパニが上手、その他パーカッションとホルンが下手に分かれて配置。合唱団は総勢150人。男女比率は1:2といったところか。


 1曲目のエグモント序曲から、鳴りっぷりの良い弦楽器の音が聴かれたが、前回から就任した首席コンマスの高畑さんによる効果か、響きが本当に柔らかくなった。次回あたりから首席奏者の試用期間がはじまりそうなので、他のオケからの客演首席奏者陣の助けを借りるのは最後になるだろう(※訂正 首席奏者の試用期間は3月定期からで採用の場合は来年7月から契約開始のようです)。しかし、見ている方のメンタル的な効果もあるだろうが、高畑さんを中心に「岡山フィル」の核がしっかりとあり、客演首席も含めて、シェレンベルガー&岡山フィルの理想の音を目指して、まとまっている印象を受ける。


 第九は、合唱団は第1楽章から入場し出番が来る手前で一斉に起立。声楽の4名は第3楽章から入場し待機。これも出番の手前で規律するという流れ。


 前回は、これまでの第九演奏の溜まった「澱」をそぎ落とそうとする、シェレンベルガーのタクトに、まるで始めて演奏するような緊張感に、見ている方もハラハラドキドキの演奏だったことを覚えているが、今回は安心して聴いていられた。しかし、演奏そのものはエキサイティング、かつ一瞬も聞き逃せないものだった。なんとなく流れる瞬間というものが無く、シェレンベルガーも切れ味の鋭いアーティキュレーションと、ダイナミクスの微調整による豊かな表情付けを要求。微に入り細に入り作り込まれた演奏になった。

 印象に残ったのは、第1楽章の第1主題では嵐の中の大伽藍とでもいうべき、巨大な世界がいきなり姿を現す。それに対し、安らぎを感じる第2主題では各フレーズがパースペクティブに整理され、その両者がまるで視界の見えない嵐の中と、雲が晴れて何か広い場所に出たような感覚になり、そこで確かに付点音符で偽装された第4楽章の「歓喜の歌」の主題がエコーする。シェレンベルガーのタクトと、今の岡山フィルの手に係れば、混沌としたこの楽章が、実は単なるカオスではなく、フーガの構造が整理されて、この世界のすべてが法則性を持っていることが示されるようだ。

 第2楽章は前回よりもいっそうテンポが速い!2階バルコニー席から覗き込むように見ていると、単純な繰り返しのようでいて、本当に難しい曲であることがわかる(特に中間部の管楽器泣かせっぷりのハンパ無さ!)。日本のオーケストラが陥りがちな「ズンチャズンチャ」のリズムではなく、ドイツ語圏のオーケストラのディクションを聴いているようだ。中間部の木管・ホルンの奏でる音からも、「歓喜の歌」のエコーが聴こえてくる。


 第3楽章は、近年の岡山フィルの代名詞となった、温かい弦のハーモニーを存分に堪能した。ベーレンライター版の第九は聴き慣れているはずが、シェレンベルガーはかなり速いテンポで小気味よく夢のような安寧な世界を描いてゆく。それは老人が走馬灯のように自らの人生を振り返る時間のようでもあり、青春真っただ中の青年が何かに夢中になっているさまを表しているようでもある。どちらにしても切ないまでの美しさが疾走するフレーズの中で息づいている。


 第3楽章から第4楽章はアタッカ気味に続く。今日の演奏を聴いてみると、個々の場面では、これまでの3楽章の主題を決して否定しているわけではなく、それまでの時間が「歓喜の歌」が生まれるための苗代の時間であった、そんな解釈だったように思う。

 バスが「おお友よ、このような調べではない。もっと快いものを歌おうではないか!」のところは、第1楽章から第3楽章までの否定ではなく、「もっとシンプルに、単純に感じよう」と諭しているのではないかと思うのだ。そして、隣人と友達になれさえすればよい、そのことに気付いた時点で勝ったようなもの、に繋がっていく。これって、親鸞聖人の「ただ念仏を唱えよ」と意味するところは同じなんじゃないかと思う。

 なぜこんなことを感じられたか?それは、この第4楽章の演奏が本当に心に染み入る演奏だったからだ。色々な人生を背負った人々が、ひとところに集まって、奏でるもの・歌うもの・聴くもの、その触媒として音楽が存在する。この日の演奏はオーケストラ、合唱、聴衆が三位一体となった演奏だったように思う。僕が岡山フィルの第九(時々、聴きに行くのをさぼっていますが)の中で、3指に入る演奏だったと思う。技術的な細かいところはわからないけれど、音程などは気になったところは皆無だったし、声に伸びがあり「人間の声ってこんなにカラフルなんだ」と感じた。舞台に乗っている方々の顔ぶれを見ると、年配の方から大学生風の方まで、バラエティに富んでいる。
 2年前にプロの合唱団を擁した読響の第九(大阪公演)を聴いた。そのとき、あまりの合唱の上手さに驚いて、本当に腰が抜けそうになった。しかし、あのプロの合唱は訓練された色彩の豊かさはあったが、天然色のカラフルさは無かったし、一人一人の個性的な声が折り重なった時に出る暖かいボリューム感は無かった。
 
 加えて、声楽の4名が素晴らしかった!関西二期会のスターたちがずらりと並んだキャストを見た時に、すでに名前で圧倒されていたのだけれど(笑)実際の演奏もやはり素晴らしかった。関西のプロオーケストラ主催の第九の歌手キャストと比べても、この岡山の第九、まったく見劣りしないメンバー。
 片桐さんのバスの冒頭を聴いただけで「おおうっ!」ののけぞりそうになる声量と声の質感。薫平さんのクリアな声、福原さんと浜田さんの二重奏は天女の舞のようだったし、特に浜田さんのハイトーンはヴィヴラートに頼らないピュアな音が心地よかった。
 
 合唱に参加された方のブログを拝見すると、舞台の上でも手ごたえを感じられていたようだ。そして、合唱の力演がオーケストラの演奏とも相乗効果が生み出された、とも。客席で聴いた自分と、舞台上の演奏者が同じように感じられていたことがわかって、うれしい気持ちになった。
 
 この曲の感動ポイントは無数にあるのだけれど、「神の前に!」のところとその後の大休止、残響豊富な岡山シンフォニーホールで毎回この部分を聴くと「教会に居るみたいだ」と思う。その後のトルコ行進曲調から有名な「歓喜の歌」に向かう部分も、何度聞いても感動的だ!今や、あの超大国のAHOな大統領が、ドAHOな政治決定をした直後だけに、ことさら今年の第九ではこの部分を聴くと、シラーやベートーヴェンの思いと歴史観に感銘を受ける。
 
 「わが抱擁を受けよ、何百万もの人々よ!」以降の部分も感動的だ(結局、どこを切り取っても感動的なのだが)。人数割合は少数の筈の男声から、力強い伸びのある合唱が聴こえ、女性の大きなものに包まれるような包容力のある声に心をゆだねる時間が愛おしい。私見ですが、お年を召めされた女声の歌唱には独特の魅力がある。特に、この中世の教会音楽の旋法で歌われる合唱の部分は本当に味わい深い。
 最後の「神々の輝きを!」のところは前回は快速テンポのまま突破していったが、今回はいったんテンポを落として、合唱が歌いきった後に一気に加速した。その前で高畑コンマスが「いくぞ~!」という感じで後ろを見渡したのが印象的。
 全体的には、前回同様の快速テンポで進める場面が多かったが、1度でも共演しているというのは大きなことのようで、オーケストラも合唱も、常に音楽の息づかい聞こえてくるような演奏。とはいえ、やはり大変な曲であるのは間違いなく、シェレンベルガーも定期演奏会でのベートーヴェンの他の交響曲よりも慎重にタクトを進めていたように思う。
 漏れ聞くところによると、来年は僕の岡山フィル第九鑑賞史上最高の演奏を聴かせてくれた、あの指揮者の再演のようで、今から楽しみです。


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京都市交響楽団第618回定期演奏会(1日目) 指揮:下野達也 Pf:フェドロヴァ [コンサート感想]

京都市交響楽団第618回定期演奏会(1日目公演)


ベートーヴェン/ピアノ協奏曲第5番変ホ長調『皇帝』

 ~ 休憩 ~

アダムズ/ハルモニーレーレ


指揮:下野達也

ピアノ独奏:アンナ・フェドロヴァ

客演コンサートマスター:西江辰郎


2017年11月25日 京都コンサートホール大ホール

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 詳しくは後日更新しますが、もし、「ハルモニーレーレ?」聴いたことないし・・・。と躊躇している方がいたとしたら、まったく心配ご無用です。

 この曲、決して難解なゲンダイオンガクではありません。ミニマル・ミュージックの発展形としての音楽で、複雑なオーケストレーション、錯綜するリズム、容赦なくオーケストラ奏者に要求される特殊奏法など、演奏する方々は本当に大変な音楽でしょうが、京響の演奏は万全、羅針盤を指し示す下野氏のタクトも冴えわたっていて、この複雑な構造の音楽を「愉しめる」メニューとしてテーブルに乗せた下野&京響は見事!の一言です。

 何よりも、中年より下の世代の日本人が浴びるように聴いてきたアメリカのロックやポップス、ハリウッドの映画音楽などの様々なエッセンスが詰まっているように感じました。例に出して悪いのですが、メシアンの楽曲が『どこか遠い国の人たちの音楽』のような距離感を感じるとしたら、このアダムズのハルモニーレーレは、戦後アメリカ文化圏に良くも悪くも組み込まれた日本人には、「自分たちの血肉になっている音楽」のように思います。また、そうした背景を考えずとも、純粋な美しさと踊りだしたくなるようなリズムに溢れています。絶対に退屈はしませんよ。


(以下、後日追記)

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 お客さんの入りは8割ぐらいといったところか?プレトークで下野さんが「また下野がこんなマイナーな曲を取り上げて、と思われているかも知れませんが、それにも関わらず沢山の方にお越しいただいた」との言葉通り、これでよく入ったなあ・・・というのが第一印象。
 楽器編成は前半は16型2管編成、後半は4管編成で銅鑼やチェレスタ、チューブラベル、マリンバなど多彩な打楽器群が目を引く。
 弦五部はストコフスキー配置、1stVn16→2ndVn14→VC10→Va12、上手奥にコントラバスが8本。
 後半のハルモニーレーレの印象が強烈だったこの日のプログラムですが、前半のベートーヴェンのコンチェルト5番も素晴らしかった。フェドロヴァさんはウクライナの出身で、美貌と存在感のある容姿もあって、ロシアンピアニズムに寄った演奏をするのかと思いきや、非常に実直で音を的確に捉え、聞えるべき音がしっかりと耳に届く演奏に、こちらの背筋までピンと立ってしまう思いで聴きました。
 京響の伴奏は非常に柔らかでニュアンスに富んでいて、特に印象に残ったのが第2楽章。フェドロヴァさんの粒のたった音に付けていく京響の透明で清涼感のある音、両者の作り出す凛とした音楽世界の高潔さに心を打たれた。
 アンコールに演奏されたのは、月光ソナタの第3楽章。やはりこのピアニストは、激しい激情を感じさせつつも、1音たりとも勢いに任せて弾くと言うことが無い、このフェドロヴァさんのピアニズムを凝縮したような演奏だった。
 後半のジョン・アダムズのハルモニーレーレ。前半よりも心なしか空席が増えている、後半券で入場した人も居るだろうから、あるいは錯覚かも知れないが、演奏途中で出ていった人も何人か居た。しかし、大半のお客さんは、集中して聴いていた。特に50代以下の世代の人は共感を持って聞いたのではないかと思う。


 僕はこの曲に本当に心底感動した。しかし、この感覚は不思議だ。情感あふれるメロディーが有るわけでもなく、同じモチーフが執拗に繰り返され、それらが少しづつ和音をずらしていく・・・、徐々に高まっていく高揚感に導かれて、自分の心臓の鼓動が共鳴して音楽との不思議な一体感がたまらなかった。 下野さんのプレトークは、音楽における和声の移り変わりの妙技を、頭で考えずに感覚で受け取って楽しんでください」という趣旨のことを仰ったが、まさにそういう楽しみ方をさせてくれたのだと思う。


 この曲は、NMLで3種類(MTT、ワールト、ラトルの3種類)の録音の中から、抜きんでて演奏精度が高いラトル&バーミンガム市響の演奏が気に入り、CDまで購入して車の中でも何度も聴いた。しかししかし、この日の京響の演奏はこのバーミンガム市響の演奏を軽く凌駕するものだったのだ!もちろん生演奏マジックというのもあるだろう。生演奏ならではの愉悦としては、CDでは到底捕らえきれなかった音や構造が見えたことだった。パート1冒頭の打楽器+金管を中心に不規則なテンポで打ち込まれる音に、チューブラベルがあれほど劇的な余韻を残していること、あるいはパート3が、まるで人工的な明かりの全く無い離島から天の川を見上げた時のような、まさに綺羅星のごとき輝きがあることなどは、まさに生演奏を聴かなければわからなかった
 
 しかし、京響の演奏は「生演奏マジック」だけでは説明の付かない、「桁違い」の演奏だったように思うのだ。
 まず、京響の音が引き締まった音で、音符を正確にとらえつつ、音楽の持つエネルギーを見事に昇華させていた。特にパート1やパート3の終結部の、クライマックスへの音楽のエネルギーの持って生き方や各楽器間のモチーフの激しい応酬の中でも一糸乱れぬアンサンブルの緻密さ、あるいは曲全体において見られたパート間の緊密な連携、なだらかな稜線を描くようなしなやかなダイナミクスなど、ほとんどの要素で京響が上回っていた。CDの方が上回っていたのは、パート2中間部の金管のハイトーンの力感、この1点のみ。
 もっと瞠目するのは、全曲40分間のうち2/3近くの時間を不定型なリズムが占めるが、そのリズムに合わせる管楽器のタンギングと弦のボウイングの精度が驚異的で、楽器間の対話にも全く隙が無い。バーミンガム市響のCD録音が決して弛緩していたり乱れていたりするわけでは無いのだが、両者比べるとその差は歴然としているのだ。


 下野&京響は曲に対する深い共感のうえに立脚し、両者は「この曲は絶対に評価されてしかるべき曲」との強い思いで客席を魅了した。それが証拠に、終演後の拍手やブラボーのボルテージは、普段は心の内をさらけ出さない京都人をして、かくも熱狂的にさせるのか、と驚いた。3回目のカーテンコールでの指揮者を湛える楽団員の足踏みも、楽団員からの心からの賛辞と満足感・達成感から沸き上がってきたものだったし、それに対して下野さんがこの曲の緑色のスコアを掲げた瞬間の会場での盛り上がりは、この「ハルモニーレーレ」が、この1200年の都において傑作と認められた瞬間を祝ったようだった。今後、この曲は京響の有力なレパートリーの一つになっていくのだろうと思う。

 ベルリオーズの幻想交響曲が、フランス革命後の時代の雰囲気を運んでくる楽曲なら、この曲はオイルの匂いと、アメリカという超大国の栄華を象徴する曲として、(下野さんの言う通り)22世紀ごろには重要なレパートリーになっている、そう確信してしまう説得力が京響の演奏にはあった。
パート1の冒頭は、サンフランシスコ湾に現れた巨大タンカーの様子が描かれているが、このパートを貫いていたのは、走り出したらもう誰にも止められない、我々の文明社会の疾走感を表しているようだ。一見、人類史上最高の栄華を極めたような我々の文明社会は、いうまでもなく化石燃料に命脈を握られている、足場の危うい文明。この曲もいつでも音符の積み上げが壊れたら、曲全体までも壊れてしまうような危うさを内包している。演奏的には危うい場面は一度も無かったが、各楽器パートがレイヤー構造で透けて見えるようなオーケストレーション、しかもミニマルミュージック特有のモチーフの繰り返しで出来ているこの曲は、おそらくミスが1箇所でもあれば、素人でも気づいてしまうだろうが、そういう場面は全くなかった。


 パート3の美しさは広大な北アメリカ大陸、いや、もはや宇宙そのもののといってもいいスケール感を導き出している。どこかSF映画のサントラで耳にしたような気がする和音がそこかしこに聞えてきて、この曲が僕らの世代の曲であることを証明している。
 僕は、パート1の始めの方で提示された和音が、後半部に戻ってくる場面でまず、涙した。自分でもなんでこれほど共感するのか、分からなかったが、パート3でも同じように涙があふれた。「まさかこの曲で涙を拭うことになるとは・・・・」と自分でも信じられない思いだったが、この楽曲の持つ同時代性に心が共鳴し、そして下野&京響の実にヒューマンなアンサンブルに感動したのだろうと思う。


 今年はこれまでに2回、ここ3年だけでも9回、京響の演奏に接している。別の曲ではあるが、それらと比較しても今回は群を抜いている。このオーケストラはこれほどまでの潜在能力・底力があったのか・・・ということを思い知った。今年もまだあと1月あるが、このコンサートが今年のベストコンサートになることは間違いないと思う。

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アークティック・フィルハーモニー管弦楽団 岡山公演 [コンサート感想]

アークティック・フィルハーモニー管弦楽団 岡山公演


オルセン/アースガルズの騎行

グリーグ/ピアノ協奏曲イ短調(*)

 ~ 休 憩 ~

チャイコフスキー/交響曲第6番ロ短調「悲愴」


指揮:クリスチャン・リンドバーグ

ピアノ独奏:ペーター・ヤブロンスキー(*)


2017年10月19日 岡山シンフォニーホール
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 プログラムのメインはチャイコフスキーの『悲愴』交響曲。
 これが僕が経験した中で、最もハイペースな『悲愴』でした。第1楽章が特に早く、テンポが早いだけでなく、通常パウゼを取る部分もほとんど間をおかずにサクサク進んでいく。あっという間に駆けていった印象。
 だからといってあっさりとした演奏だったわけではありません。リンドバーグの躍動的なタクトに導かれ、通常のテンポであれば見えなかった、次々に受け渡されるモチーフの展開の妙味や、ロシア音楽特有のリズム感が引き出され、なかなか得難い経験でした。


 細かい感想は後日更新します。

 それにしても若い、躍動的なオーケストラですね~。燕尾服ではなくスーツにネクタイ姿。楽団員さんの皆さんも人懐っこくて、出来立てほやほやのオーケストラであることを逆手にとって、新感覚のオーケストラという印象です。紹介動画も最高にイケてます。



 このオーケストラは 2009年にノルウェー政府によって設立。北極圏の都市全般を拠点に活動しているとのこと。ホームページを見るとフルサイズのコンサートオーケストラから室内管弦楽団、オペラまでフルラインナップの活動を行っている。
 オーケストラ全体の実力は、首席奏者はヨーロッパの一流どころに比べると、今一歩な印象が残ったが、管の2番手以降やトゥッティ奏者にいい奏者が多く、オーケストラ全体のレベルとしてはかなりのレベルだと思います。
 世界的にオーケストラの経営危機が言われ、実際に淘汰される時代に、新たに出来たオーケストラに一挙に優秀な奏者が集まって出来た。そんな印象を受けます。


 1曲目のオルセンの曲は 大河ドラマのテーマ音楽メドレーのような大変耳になじみやすい曲で、リンドバーグのスポーティーなタクトによく反応して、なかなかの熱演でした。それにしてもよく鳴ります。岡山フィルが最近とみに、よく鳴るようになった印象だが、さすがにここまでは鳴らないですねぇ。管楽器が特にパワフル。


 楽器の配置は10型2管編成。1stVn10→2ndVn7→Va6→VC6、上手奥にコントラバスが5本。管楽器がパワフルなだけに、バランス的にはヴァイオリン・ヴィオラがもう2本づつ欲しいところ。


 2曲目のグリーグのコンチェルト。細かい部分までアクセントを入れて土俗的な風合いを出すオーケストラに呼応して、ヤブロンスキーもアクセントを強めに演奏。一方で、繊細な部分は粒が綺麗に立っていて息をのむほどに美しい。 第3楽章のオーケストラが大音量で奏でられる部分も、まったく音量で負けていないのは、さすが。スウェーデン生まれの彼にとっては、この曲などは何十回と弾いているだろう。安定した演奏の中に聴かせどころがちりばめられていました。あまりにもスムーズに演奏してしまうので、正直、「この人の潜在能力はまだまだ底が深いんだろうな」という印象が残ったのも正直な感想。


 アンコールに演奏されたドビュシーの前奏曲から「花火」、これが匂い立つようなニュアンスたっぷりで、抜群によかった。次回はショスタコーヴィチの協奏曲やラフマニノフの3番あたりを聴いてみたい。


 メインのチャイコフスキーの『悲愴』交響曲。この曲に持っているイメージを完全にリセットさせられる演奏に最初は戸惑った。とにかくテンポが速い、陰鬱なメロディーも「ことさら暗く演奏するのは趣味が合わない」とばかり、流してしまう。第1楽章の途中から「先入観を取り去って聴かないと楽しめない」と思い、ただ、心を開き、体に沁み込んで来る音楽そのものを感じるように聴いた。
 すると、チャイコフスキーの緻密に計算された設計が透けて見えるようで、そして何よりすべての瞬間がはかない「美しさ」に溢れている。第1楽章終結部から第2楽章にかけての、爽快な美しさは生命肯定的なもので、「この曲に、こんな一面があったのか」と驚きながら聴いていた。このリンドバーグの解釈には賛否両論あるだろうが、僕の結論はこれはこれで「アリ」だ。

 オーケストラは細かいミスを気にすることなく、黒い衣装で登場した前半とは違う、紫の衣装を着たリンドバーグの(休憩前後で『お色直し』をする指揮者を初めて見ました、エンターテイナーやなあ)飛び跳ねるような指揮に呼応して、第3楽章では体操の集団演技を見ているような、スポーティーな演奏となった。ティンパニ・バスドラムを舞台奥ではなく、上手の前よりに配置していることもあって、打ち込みがクリアに聴こえてくる。

 第4楽章へはアタッカで繋げたが、この楽章もことさらに悲劇的に演奏しない。それだけに曲想の美しさが
感じられる演奏になった。
 ストリングスにヨーロッパのオケ独特のコクや、北欧オケ独特の透明感といった大きな特徴が無いのが、少し
物足りなかったが、まだ創立8年ということを考えると、今後の課題ということになるだろうか。

 ともあれ、岡山でこのレベルのオーケストラの演奏は、目下年に1,2回ぐらいしか聴く機会が無いわけで、
そういう意味では次回の来岡が楽しみなオーケストラです。


 アンコールにステンハンマルのカンタータ「歌」の間奏曲を持ってくるあたりは抜群のセンス。もう1曲は
リンドバーグがトロンボーンの妙技を見せたチャールダッシュ。会場は大いに盛り上がった。

 お客さんの入りは・・・うーむ、甘めに見積もって6割ぐらいでしょうか。市内の高校生も招待した様子でした。

 海外のオーケストラの公演といえば、長らく事務所売り出し中の若手の奏者がセットになって付いてくる場合が多く、ソリストの実力・経験に比してオーケストラが性能をもて余しているようなものが多かったが、最近は実力も実績もあるソリストをつけることが多いように思う。若手奏者にもチャンスは必要だが、彼らの履歴書に「名門○○フィルと共演し、好評を博した」の一文を付け加えるために、我々が高いチケット代を払わされる理由はないのですから。


 今回のツアー全体の招聘元はプロ・アルテ・ムジケ。これまで光籃社が担ってきた部分を同社が穴を埋めてくれているようだが、今年5月のタンペレ・フィルといい、いいオーケストラとソリストをつけて魅力的なプログラムを引っ提げてきている。この事務所の招聘事業は信用して積極的に足を運ぼうと思った次第。


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 ロビーではノルウェーにちなんだミニ絵画作品展が行われていた。5月のタンペレ・フィルの公演時にはミニ「ムーミン展」があったり、色々な工夫がありますね。

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岡山フィル第54回定期演奏会 シェレンベルガー指揮 Vn独奏:青木尚佳 [コンサート感想]

岡山フィルハーモニック管弦楽団第54回定期演奏会


ベートーヴェン/交響曲第2番ニ長調

ブルッフ/ヴァイオリン協奏曲第1番ト短調

 ~ 休 憩 ~

ベートーヴェン/交響曲第7番イ長調


指揮:ハンスイェルク・シェレンベルガー

Vn独奏:青木尚佳

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 オーケストラも指揮者も『完全燃焼』したコンサートではなかったでしょうか。「もう1曲やれ」と言われても、もう絶対に無理・・・それほど燃焼度の高いコンサート。世界最高の世界を知る男が、手足となる相棒(新首席コンサートマスター)を得て、プロの奏者が本気で燃えた演奏会、岡山でしか聞けない、だからこそ僕にとって意味のあるコンサートでした。今日の会場を共にした聴衆も同じ思いではないだろうか。


  今回の一番の注目は、楽団史上初の「首席コンサートマスター」の就任。新コンサートマスターにドイツの南ヴェストファーレン州立フィルハーモニーのコンマスを38年間勤めた、岡山出身の高畑壮平さんが就任した。
 この人事には正直驚いた。2年前のJホールでの「高畑壮平と岡フィルのなかまたち」コンサートの時に、シェレンベルガーと岡山フィルに対する好意的な印象を語ってくださったときに、心の中で『この方が首席客演でもいいからコンサートマスターに来てくださったら』と思っていたが、まさかの常任ポストへの就任。驚天動地です。
 南ヴェストファーレン・フィルは、来日回数が少ないため、岡山の人には知名度は低いかもしれないですが、ルール工業地帯を抱えるノルトライン・ヴェストファーレン州の州立のオーケストラで、12型3管編成(約70人)規模の堂々たる常設オーケストラ。常任指揮者は日本でも人気のあるチャールズ・オリビエ=モンローといえば東京・関西のファンはピンとくるだろう。
 そのオーケストラのコンサートマスターが、故郷とはいえ非常設で発展途上の岡山フィルに来てくださるなんて、思ってもみなかった。

 シェレンベルガーの首席指揮者就任とともに、この高畑さんの首席コンマス就任。。。岡山で信じられないことが起きている。

 開演に先立って、その高畑新コンマスら5名の団員によるプレコンサートがあった。イタリアのバロック時代の作曲家:サンマルティーニの「弦楽合奏のためのシンフォニア」という曲。僕は初めて聞いたが、華やかで躍動感があって、すごくセンスのいい選曲です。


 開演15分前からは、高次事務局長の紹介で、シェレンベルガーさんと高畑さんのお二人によるプレ・トーク。
 シェレンベルガーさんのお話を高畑さんがドイツ語に翻訳、これでシェレンベルガーさんもオーケストラとの
コミュニケーションは格段に取りやすくなったと思う。お二人の信頼関係はすでに充分に醸成されていることがよく伝わってきた。


 1曲目のベートーヴェン/交響曲第2番。演奏が始まって、高畑コンマスの効果はすぐにわかった。これまでの定期演奏会からも、アンサンブル能力がみるみる向上している岡山フィルだが、ここへきて2段ほど上のレベルのオーケストラになったように感じた。
 そして、シェレンベルガーがいつもにも増して、オーケストラの要求レベルを上げているのがよく分かった。激しすぎるチェロバスの刻みや、第1・4楽章の随所でのベートーヴェンの感情が乗り移ったようなスフォルツァンドでは、シェレンベルガーのタクトに俊敏に、そして激しく反応し、その迫力に客席で思わずのけ反りそうになる、そして各楽器間の対話が極めて緊密で、アンサンブルの骨格ががっしりとしていること。


 家人とも話をしたのが、旋律の最後の部分やアクセントがかかる部分が「ドイツ語」的で、例えば母音のアクセントの強さや、英語のような曖昧な発語がないく一文字一文字が独立して発音される感じ、とか、子音のウムラート発音などの要素が、演奏される音楽のそこかしこに感じられ、それが演奏全体に骨太でかっちりとした印象を与えている。第4楽章の冒頭の演奏なんて、完全にドイツのオーケストラの節回しだった。

 シェレンベルガーと相性も良かった戸澤さんが客演コンマスの時の切れ味の鋭い演奏も良かったけれど、「外見は日本人ですが中身はほとんどドイツ人なんです」と語る高畑さんとシェレンベルガーは、ベートーヴェン解釈において、より気脈を通じるところがあるのだろう。ドイツ語の持つ言葉のテンポや発音が音楽の中に内包されて、それがより説得力を増していた。この音楽づくりにおいて高畑コンマスの果たした役割は非常に大きかったんじゃないだろうか。

 もちろん、岡フィルの健闘も素晴らしかったのだ。第1楽章の最後の一音がホールの残響として響き渡ったとき、「これぞ、ベートーヴェンの音」と思う素晴らしい響きだったし、第2楽章の弦楽器の美しさにも魅了された。
 一点、難点を言わせていただくと、以前から指摘している通り、やはり弦楽器奏者の中に何人かピッチを合わせきれない方がいて、この曲中何回か、その馬脚が見える局面があり、聴く方も一瞬、興がそがれてしまう。これだけオーケストラの演奏レベルが上がってくると、今まではわからなかった部分も見えてきてしまう。


 2曲目はブルッフのヴァイオリン協奏曲。「超新星の登場!」を実感した。
 青木尚佳さん、ロン=ティボー2位入賞の際は少し話題になった記憶があるのですが、今回、初めて聞きました。こりゃー、とんでもないソリストが現れましたですぞ!

 ティンパニと木管に導かれて、切ないメロディーが鳴った瞬間。


 「なんちゅう美しい音、こりゃすげー!!」


 と思いましたよ。音が太くて音圧も満点。高音の抜けの良さも尋常ではないレベル。オーケストラが割と容赦無く鳴っても(これまでの経験上、シェレンベルガーはソロ演奏でもオーケストラを鳴らす場面ではしっかりと
鳴らす印象)、まったく問題にしないパワフルさ。独特の輝きと味わい深さも兼ね備えている。1992年生まれというから、現在25歳?うそでしょ?20代の若手のソリストが、これほど堂々たる演奏と、テクニックだけではなく奏でる音の味わい深さは、心を惹きつけてやまない。
 青木さん、このまま演奏経験を積み重ねていけば、間違いなく世界の最前線で活躍するヴァイオリニストになる。そう確信した演奏でした。


 岡山フィルの伴奏も良かった。第2楽章の青木さんのこれ以上ない甘美なメロディーにつける、さざ波のようなストリングスの音を聴きながら、「この音はどこに出したって恥ずかしくない、堂々たるわが町のオケの音」と思いながら聴いていました。
 第3楽章では青木さんの圧倒的な存在感に、どんどん挑んて行って、両者の火花の散るような「競奏」はわが町のオーケストラながら天っ晴れな演奏でした。オーケストラがよくなれば、ソリストのソロも引き立つ。岡山に居たって世界レベルの芸術世界は体験できる。


 青木尚佳さん、もうすっかりファンになってしまいましたですよ。地元に来たら必ず足を運ぼう、なんなら関西・広島でも時間と交通費払ってでも聴きに行きたい。次はブラームスのコンチェルトあたりを聴いてみたいですね。 

 アンコールは、山田耕作の「この道」



 後半が始まるころには1時間25分が経過。今年1月の定期もそうでしたがシェレンベルガーの組むプログラムはいつもボリューム満点。17時で終演することの方が少ないです(笑)。楽団員はクタクタになるんじゃないかと思いきや、第1ヴァイオリンの近藤さん、入江さん、上月さんらの設立当初からのメンバーのお顔には充実感が漲っています。
 この日の各パートの首席にも、他楽団からのエキストラの方がいらっしゃってました。今回は、コントラバスに黒川さん、フルートに中川さん、ファゴットに中野さん、となぜか京響色の強い助っ人メンバー(笑)広上&京響の快進撃の立役者の皆さんも、この日の岡山フィルのパート間のコミュニケーションが饒舌で、骨太な一体感のある演奏を評価してくださるのではないだろうか。他の助っ人の皆さんも含めて、本当に献身的に演奏してくださった。
 これまでは「コンマス+首席奏者の殆どが他楽団のエキストラ」という編成に、シェレンベルガーも遠慮して(あるいはチャレンジがしにくい足枷をはめられて)いたんだなあ、と思います。

 もう一つ大きな変化を感じたのは、ダイナミクスの振幅が、今までは7段階ぐらいだったのが、再弱音が+2段階、最強音一歩手前に+1段階ぐらい加わった感じ。第1楽章の8ビートのリズムとバランスを保ったまま、
再弱音に落として巧みにギアチェンジをしながら盛り上がっていく場面は鳥肌が立ちました。この曲もドイツ語的な節回しは健在。交響曲第1番では一部奏者のピッチのズレが気になったヴァイオリンも、よく弾き込まれているのかこの曲では感じません。


 第1楽章の提示部の繰り返しは無し、第4楽章で一か所、「あれっ?」と思う箇所があって、CDや生演奏で親しんでいたものとは違う楽譜かも。
 第2楽章は木簡陣のソロが見事、ここれもダイナミクスを広く取った劇的な表現が印象ん残ります。第3楽章は新コンマス体制の強みがいかんなく発揮。コミュニケーション量が豊富で、前半の第1番の第3楽章でも見せたのですが、ちょっと間を置いて、各パートが対話をしているような生き生きした表現が印象的。
 この日のコンサート、ここまでが非常にハイカロリーかつ異常な集中力連続だったので、「最後まで持つかな?」と心配したのもつかの間、シェレンベルガーのタクトの勢いは一層熱を帯びていきます。これほど激しいタクト捌きを見せたのは、東日本大震災被災者鎮魂のためのドイツ・レクイエム以来です。


 曲の中盤でも間を多用し、さながら「だるまさんが転んだ」を思い起こします。この曲、こんなにハイドン的な面白い仕掛けがあったんや、という発見あり。岡フィルも完全についていきます。
 終盤は少しづつ少しづつテンポも上げていっても全パートふるい落とされることはありません。シェレンベルガーも楽団員も高畑コンマスを信頼しているのが解ります。本当にいいオーケストラになったと思った大団円でした。

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 お客さんの入りは7割ぐらい?プログラムからすると満席になってもいい筈なんだけれど、これには理由がある。今週は「おかやま国際音楽祭」の開催中で、同じ日に「マーチング・イン・オカヤマ」が開催されており、岡山市内の吹奏楽関係者の多くはこちらに参加している。高校のブラバンの顧問をしている私の友人も「音楽祭かなんか知らんけど、音楽人口の少ないこの街で、イベントをかぶせるなんて愚の骨頂!」と、かなりお怒りだった。こんなにいい演奏をしているのに、いつも聞きに来ている方が来られないというのは、何のための音楽祭だろう?という疑問は消えない。昨年みたいに日程をずらしてほしかった。

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ピョートル・アンデルシェフスキ ピアノ・リサイタル 倉敷公演 [コンサート感想]

第102回くらしきコンサート ピョートル・アンデルシェフスキ ピアノリサイタル


モーツァルト : 幻想曲 ハ短調 K.475
モーツァルト : ピアノ・ソナタ 第14番 ハ短調 K.457
ショパン   : ポロネーズ 第7番 変イ長調 op.61「幻想ポロネーズ」
  ~  休 憩  ~
ヤナーチェク : 草陰の小径にて 第2集
J.S.バッハ : イギリス組曲 第6番 ニ短調 BWV811


2017年10月3日 倉敷市芸文館

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 このコンサート企画が発表された際、『よくぞ、この方を招聘してくださった!』と思いました。そして、倉敷市芸文館という音響の優れた中規模ホールで聴けたのも僥倖。このホールでよく会場設定してくださったと思う。


 演奏は圧倒的だった。クラシック音楽の宿命であるこれまでの演奏の『蓄積』から自由になり、一音一音を再構築していくような演奏に、ただひたすら引き込まれ、ひれ伏しました。ピアノ演奏不感症(オーケストラや弦・管楽器の独走に比べて、ピアノ演奏で感動することが少なかった)の自分が、これほど心に沁みたのは何年振りかの出来事でした。


 アンデルシェフスキの演奏を聴くのは、今回が2回目。1回目はバンベルク響との共演で、その時は補聴器のハウリング音のため、彼の音楽を充分には楽しめなかった。あれ以来、万全の状態でアンデルシェフスキの音楽に触れたい、と熱望していたところに今回のコンサート企画が飛び込んできた。前日の反田恭平さんのコンサートも自重してこのコンサートに全精力を傾けた。


 1曲目のモーツァルトの幻想曲K.475とピアノソナタK.457は続けて演奏された。しかし、これは本当に違う作品番号の曲なのだろうか?ソナタの第1楽章は、幻想曲のモチーフが展開してできているようにしか感じない。それもそのはず、この曲はもともと連続して演奏されるように書かれているとのこと。

 アンデルシェフスキ(以下、アンデルさん)の深く、深く、精神の奥底に沈み込むような音に、しょっぱなから飲み込まれた。そんな暗黒の淵に光が差すように、モーツァルトのピュアな旋律が降り注ぐ、弱音への徹底したこだわり、全曲に渡って左手の彫りの深い音をフィールドに、右手の変幻自在な音楽が展開されていく。


 3曲目のショパンの幻想ポロネーズ。この曲はピアノを習っていた姉が、高校生のころに何度も弾き込んでいた曲で、間違いの多い箇所は嫌になるほど聴かされた曲(笑)私の実家は外壁のみの防音構造のリビングのピアノの音が、階段から僕の個室である2階の部屋に抜けていく構造になっていて、僕がどうしてもショパンが好きになれないのは、姉の練習を何千回何万回と聞かされてきたからかもしれない。

 たぶん・・・プロフェッショナルな演奏でこの曲を聴くのは初めてだった・・・と思う。「なんなんだ、この曲、全然違う曲に聞こえる!」音源で聴いた他の巨匠たちの音楽とも違う。過去の演奏をブラッシュアップしたような・・・そんな生易しいものではない、脱構築の工程を経て再構成されたような、一つ一つの音符すべてにアンデルシェフスキの思想が宿り、意味を持って聞き手に迫ってくる。最後の激しい部分ではピアノの弦が切れるんじゃないかと心配するほどの強い打鍵で、自分の奏でる音楽を聴衆に問うてきた。思わず目の奥が熱くなってくるが、何とかこらえる。


 休憩をはさんだ後のヤナーチェク。前半のモーツァルトとショパンは、その2人の作曲家への僕のイメージを完全に覆す、内省的な音楽だったが、このヤナーチェクでは、もの悲しさと翳りを内包しつつも、プリミティブな魅力を湛えた演奏。プログラムノートには、この時期のヤナーチェクは娘を失うなどの悲しみに打ちひしがれていたようだが、時に心に寄り添い、時に躍動するアンデルさんの音楽には悲しみや辛さといった単色の感情では表せない奥深さがある。


 ヤナーチェクからバッハも、休憩を入れることなく続けて演奏された。それはまるでホールの隅々にまで満たしたアンデルさんの音楽世界を、聴衆の拍手によって破られることを嫌っているようだ。

 この日のホールの中の雰囲気はすこぶる良かった。お客さんは、800席ほどのキャパのホールに8割程度の入り。アンデルシェフスキほどのソリストのコンサートなのに満員にならないのか・・・と驚いたが(でも、ド平日のソワレの割にはよく入ったとみることも出来るかな・・・)、それがある種の「少数精鋭」効果を発揮して、雑音のまったくない理想的な空間だったように思う。

 バッハのイギリス組曲第6番。この演奏が圧巻だった。途中から頭が真っ白になって、純白の石づくりの堅牢な建築物の中に、アンデルさんの音楽と自分の魂だけがそこにある、そんな錯覚を覚えた。この大きな大きな音楽は、オーケストラが演奏するブルックナーの交響曲にも充分対峙してしまうだろう。一音一音が収まるところに収まる気持ちよさ、対位法が駆使された旋律同士の隙のない対話が音楽をどんどんと高みへと昇華していく。

 第1曲のプレリュードと第7局のジーグなどは、ほかの巨匠の演奏よりもかなりテンポが速かったと思う。それでいてこの完璧さ。技巧を前面に出すタイプのピアニストではないアンデルさんだが、ここの演奏はその音楽世界とともに、職人芸にも痺れさせられた。


 アンコールはなんと3曲も。それもこじゃれたアンコールピースなどではなく、ショパンのマズルカを3曲も!

 ショパン/マズルカハ短調op.56-No.3、マズルカロ長調op.56-No.1、マズルカop.59-No.1


 コンサートの只中のアンデルさんは、本当に厳しい雰囲気で、その厳しさに会場には戸惑ったような雰囲気さえ漂っていたんですけれど、コンサートが終わると本当にサービス精神が旺盛で、サイン会まで開いてくださって・・・。21世紀は巨匠の時代は終わった・・・なんて言ってる人もいるけれど、アンデルシェフスキは今の時代に生きる本物の巨匠です。


 年に何回もピアノのソロコンサートに行くことはない自分ではありますが、今まで足を運んだピアノのソロコンサートの中で、ベスト1のコンサートになった。


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※中秋の「十四夜」、望月よりも少し欠けた月が味わい深い

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大原美術館第148回ギャラリーコンサート ザ・イマイ・ヴィオラ・カルテット [コンサート感想]

大原美術館第148回ギャラリーコンサート

ザ・イマイ・ヴィオラ・カルテット


ダウランド(小早川麻美子 編)/もし私の訴えが
野平一郎/シャコンヌ~ヴィオラ四重奏のための(2000)
       -J.S.バッハの無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番による
バルトーク(ルドゥメーニ 編)/トランシルヴァニアの夕べ
バルトーク/44の二重奏曲から
 ~  休 憩  ~
杉山洋一/ヴィオラ四重奏のための「子供の情景」(原曲:R.シューマン)
       大原美術館委嘱作品 世界初演
ピアソラ(小早川麻美子 編)/「単語の歴史」より売春婦(1900)・カフェ(1930)
     〃          /エスクアロ(鮫)


ヴィオラ:今井信子
  〃 :ファイト・ヘルテンシュタイン
  〃 :ウェンティン・カン
  〃 :ニアン・リウ


2017年9月16日 大原美術館本館2階ギャラリー

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 毎年楽しみにしていたアルト・ドゥ・カンパーニュ(ヴィオラ四重奏団)の岡山公演が、今年は開催されないことに落胆してたが、なんと今井信子さんと若手ヴィオラ奏者で結成された「ザ・イマイ・ヴィオラ・カルテット」が大原美術館に来るということで、楽しみにして足を運びました。

 いつもの事ながら、会場は満員。下手の出入り口付近、モネの睡蓮を横目に見ながら観賞する位置で聴きます。


 オーケストラの楽曲で主に内声を担い、そのオーケストラの音の厚みはヴィオラ・セクションのレベルで決まるとさえ言われる重要なセクション。クラシック音楽ファンならその重要性は理解しつつも、やはり地味な存在と感じてしまうヴィオラ。
 開演に先だって、主催者の大原謙一郎さんが今井さんを紹介する言葉に、「ヴィオラでもリサイタルを開いて聴衆を魅了することが出来る、そのことを証明した第一人者」との紹介があった。


 今井信子の存在感の大きさと心にしみる音は格別。その今井さんの弟子のニアン・リウは力強さとピュアな音に魅力がある。こちらも今井さんの弟子ヘルテンシュタインの明るい響きと技巧の高さ、すでに指導者として名を馳せるウェンティン・カンの安定感と気品のある音。それぞれが特徴を打ち出し、4人の個性が合わさった時の音が本当に心地よかった。ヴィオラの音には人を陶然とさせるものがある、改めてそう感じさせられた。


 悲しみを湛えつつもヴィオラの柔らかいハーモニーを存分に楽しんだダウランドの小作品の後、拍手をする間もなく2曲目のバッハのシャコンヌに突入。この曲でこのカルテットの実力のベールは解かれた。深いボウイングから奏でられる太い音が幾何学的に絡み合い、感情など一切入る余地のない冷静かつ完璧な演奏なのに、聴く者の精神は高揚していく。

 始まって15分もしないうちにすごい演奏を聞かせてもらった。


 次はバルトークの2曲。特にバルトークの真骨頂である民族音楽をモチーフとした「44の二重奏曲より」では、こういうサロンコンサートならではの趣向が凝らされ、原型となった民族音楽の演奏とバルトーク自身によるピアノ独奏の音源が披露され、それに続くような形で演奏に入った、会場を満たすロマの響きに導かれ、バルトークがフィールドワークによって集めて回ったいろいろな音楽を追体験するような趣向。基本的には二重奏で演奏され、色々な組み合わせて聴けたのは面白かった。四重奏で演奏される部分での合奏も見事。


 休憩中には「ヴィオラだけの演奏かどうかを抜きにして考えても、これだけのバリエーションのあるコンサートはなかなかないよね」等の周囲の会話に心の中で相槌を打つ。


 次は、杉山洋一さんの作曲による委嘱作品。これは大変な技巧が必要な曲、ではあるんだけれど、遊び心に富んでいて、もう大人になった今ではとらえどころのない子供が見る風景を再現していた。曲の冒頭から終始、時空が曲がるような音に会場からは笑みが漏れるが、4人の奏者はいたって真剣!これほどのハイレベルなヴィオラ奏者4人が、超絶技巧や特殊奏法を駆使して、こんなかわいらしい子供の世界を描く…、これこそアート
なのだと思う。


 最後の2局のピアソラも、圧倒的だった。「タンゴの歴史」の「売春婦」という曲は、「ピアソラの曲にもこんなに快活な曲があるんや」との発見あり。他の曲は独特の哀愁に満ちたリズムに酔いしれた。ピアソラに関しては今井さんが3人の若手・中堅奏者に主導権を任せ、自身もノリノリの演奏を展開。いや、本当にお若いです。

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 アンコールにシューベルトの歌曲。編曲はなんとピアニストの北村朋幹さんとのこと。このギャラリーコンサートの常連ピアニストで、ヴィオラカルテットを演奏することを聞きつけて、半ば強引に「先方から楽譜を送ってきた」とのこと。この美術館でのサロンコンサートが触媒になって、色々な音楽家と聴衆が交流し、こうした思わぬ贈り物に接することもある。

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 「日本に京都があってよかった」は、京都のキャッチコピーだが、この日の僕の気分は、「僕の住む隣町が倉敷で、そしてそこに大原美術館があってよかった」という思いだった。


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京都市交響楽団第616回定期演奏会(2日目) アクセルロッド指揮 [コンサート感想]

京都市交響楽団第616回定期演奏会(2日目公演)

武満徹/死と再生
R.シュトラウス/交響詩「死と変容」
ベルリオーズ/幻想交響曲

指揮:ジョン・アクセルロッド
2017年9月3日 京都コンサートホール大ホール
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 やっぱり今日も白眉だったのは、ベルリオーズの幻想交響曲。
 1日目の度肝を抜かれた演奏から一夜開けてもクオリティはまったく変わらず、ってことは、この演奏がまごうことなく現在の京響の実力。昨日はあまりの調和的美しさと、ビシバシ決まる後半2楽章の追い込みに、泣きそうになるぐらい感銘を受けたが、今日は耳が慣れてきたこともあって、細かい部分まで聴きとれ、興奮しっぱなしだった。心の中でずっと「京響うまいなー」「すごいなー」とつぶやいていた感じ。
 昨日は座席の関係で、そう聞こえたのかな?程度の認識だったが、今日は逆サイドに座って改めて思ったのだけれど、第5楽章の鐘、こんなに大胆に鳴らす演奏は初めてかも。
 9/8追記
 この演奏を2日聴く幸運(日曜日は本来は勤務日で、休みが取れたのも幸運)を神に感謝したい。冒頭でも書いた通り、京響の演奏は、R.シュトラウスは昨日を上回る、武満とベルリオーズは、極めて高水準だった昨日と並ぶ演奏を聴かせてくれた。
 武満の「死と再生」は、NML(ナクソス・ミュージック・ライブラリー)にも音源が無く、昨日が初聴きでなかなか曲全体がつかめなかったが、2回も生演奏で聴いてみると、前半2曲は同じ「死」とそこからの「魂の浄化や再生」という素材を共有しながら、こうも違うものか、と思った。
 R.シュトラウスの「死と変容」が作曲された1988年は、人間一人一人の魂や精神に重さがあった時代だったのだろう。しかし、武満の音楽からは個人や個性というものから解脱した魂の浮遊しか感じない。国や文化の違いももちろんあるだろうが、20世紀前半の大量殺戮の時代の前と後という要素がやはり大きいと感じる。 
 一方で、最後の解決和音に象徴されるように、武満の音楽の美しさも感じることが出来た。

 2曲目の「死と変容」。これは1日目とは全く違った演奏になった。特に木管陣の音に華やかさが出て、弦の音も初めから潤いがあった。病と死の恐怖にのたうち回る場面は、そもそも様々な音が錯綜しているのだが、その錯綜する音楽が完璧なコントロールで演奏された。
 しかしそれでも、後半の「幻想交響曲」のパフォーマンスの高さには追い付いていなかったかな、というのが正直なところ。違いは木管にあるように感じた。前半の木管は首席奏者を温存しての演奏。それでここまで演奏できるのだから、すごいことには違いないが、首席が出て来ると音楽の音色だけでなくオケ全体の動きや反応がまったく変わるんですよ。

 そのベルリオーズ、冒頭にも書いた通り2日目も凄い演奏になった。
 この幻想交響曲は、最近だけでもメルクル&大フィルとロト&読響の演奏にも接してきた。メルクル&大フィルも流麗で大フィルの潜在能力を引き出した演奏に感銘を受けたが、今やオーケストラの絶対的能力という点では大フィルは京響には敵わない。読響の演奏は、それはハイレベルな演奏だったが、フランソワ=グザヴィエ・ロトのピリオド奏法を基調にした急進的な解釈は、面白くはあったけれども、僕の感覚では今回のアクセルロッド&京響の抗いがたい美しさに軍配を上げたい。
 失礼ながら、西日本では随一の首席奏者陣を誇る京響ではあるが、トゥッティ奏者となると、読響などの東京のオーケストラの陣容には敵わないと思う。しかし、音楽はそれだけではないということも今回の演奏で感じた。京響の演奏は、ひとことで言えば、極めてイマジネーティブでクリエイティブかつイノベーティブであった(ひとこととちゃうやん!)

 1日目には、やはり音楽の作り出す熱狂的な空気に飲み込まれて、理屈抜きに心が動かされた部分があったが、2日目を聴いてみると、指揮者とオーケストラとの信頼関係の間で緻密に設計され、計算し尽くされての、この悪魔的熱狂なのだということがよく解った。それが証拠に、トゥッティでの各パートのバランスは完璧だったし、フォーカスを当てるパートがどこなのかもよく見える一方で、内側で動いているパートの音もよく聴こえてきた、第4楽章のモチーフの繰り返しの部分の弦楽器の激しい運指の部分も、恐ろしいまでに完璧な演奏だった。弦は第5楽章でも大トゥッティのホールが震撼するような場面でも部分でも音が埋もれることが無かったし、ベルリオーズの偏執的とも思える、グロテスクな音を出すための仕掛けもすべて完璧な演奏で答えた。

 今回が4回目の共演となるアクセルロッドとは、厚い信頼関係が出来ているのだろう。指揮者とともに緻密に音楽の下ごしらえをして、本番では、少しでも気を抜くと血しぶきが飛びそうな、両者の真剣での立ち回りを展開し、本番の聴取の前でイマジネーティブでクリエイティブな演奏を完璧にやり切った。2日目の後半2楽章のアクセルロッドさんの煽りは1日目以上だったが、京響は余裕を持って音楽に昇華させているように思えた。
 しかし、第5楽章の最後、チューバが怒りの日の旋律を咆哮する「ウラ」で鳴っているはずの弦が、アクセルロッドさんの突き刺すようなタクトに答えて、ストリングスが「空間がねじ曲がったんじゃないか?」というほど壮絶に鳴ったのにはビックリした。生演奏であんな音を初めて聴いたし、CDでもブロムシュテット&ドレスデン・シュターツカペレのライヴ演奏のものしか聴いたことが無い。あれには最後にやられたなあ。凄いものを聴かせてもらった。

 今の京響は、本当に恐ろしいまでのオーケストラだと思う。

 この日の客の入りは、土曜日よりも若干減って7割ぐらいの入り。なんと勿体ない!
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京都市交響楽団第616回定期演奏会(1日目) アクセルロッド指揮 [コンサート感想]

京都市交響楽団第616回定期演奏会(1日目公演)


武満徹/死と再生
R.シュトラウス/交響詩「死と変容」
ベルリオーズ/幻想交響曲

指揮:ジョン・アクセルロッド
コンサートマスター:泉原隆志

2017年9月2日 京都コンサートホール大ホール
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 京響の感想をここにしたためるたびに、「凄い」「上手い」「文句なし」など、賛辞・美辞麗句を並びたてるんですけど。。

 今日の後半のベルリオーズの演奏の切れ味・隙のなさ・迫力・表現の多彩さ、すべてについて「参りました!」と、言うほかはありません。

 アクセルロッドのスリリングな真剣な挑発に、真剣に「倍返し」をしてみせた、後半の2楽章は圧巻の一言、作曲された時代のファナティックな雰囲気を、そら恐ろしいまでに表現してみせた。

 安らかな牧歌で始まり、これ以上ない緊張感で終わる中間楽章。そして、第二楽章の舞踏会の華やかさや儚さは、木管陣の奮闘が光る。大フィルから移籍した上野さんを含む木管陣は再び磐石の布陣になった。夢のような調和と美、世界を見渡しても、京響の木管はトップクラスだ。ずっとこの調和と美を味わっていたい、そう思わせるものがあった。

 「死と変容」は、変容(浄化)のモチーフが出てくる中盤から最後までは見事な演奏。幻想交響曲でもそうだったが、弦楽器の分厚い響きは、かつての京響のイメージを覆すに充分。ただし、この曲の前半は…。明日の楽しみのために敢えて感想は書かないで置こうと思う。

※9/3追記、意味深な書き方になったが、「死と変容」は特に事故やミスがあったわけでありません(笑)後半に比べて、ちょっと・・・・物足りなかった、というだけです。


9/8追記

 あのコンサートから一週間が経とうとしているが、じっくりPCの前で腰を据える時間が取れなかった。それでも、まだ頭の中に鮮明に残っているのは、それだけ素晴らしい演奏に接したということだろう。

 オーケストラの編成は14型、1stVn14→2ndVn12→Vc8→Va10、チェロの後ろにコントラバス。チェロの首席にはN響の藤森さんが座りました。渡辺穰さんがフォアシュピーラーに座ったため、ファーストVnのトッププルトは泉原さんとのダブルコンマス。楽団のアクセルロッドさんに対する期待が伺われます。お客さんの入りはう~ん、7割5分といったところでしょうか・・・。

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 武満徹の「死と再生」は管楽器を入れない弦楽合奏での演奏。特にヴィオラ・チェロの響きに透明感があり、純水が滴り落ちるような魅力的な音を奏でていた。ハーモニクス奏法なども駆使する、技巧的な側面もある曲だが、京響はまったく安定していた。京響の特質は武満に合っていると思うので、もっと演奏されて欲しいな、と思う。
 アクセルロッドさんのプレトークによると、この曲のナチュラルな、寄せては返す波のような音のダイナミクスは、生命と死の輪廻転生を意味しているとのことだった。決して聞きにくい曲では無いが、この曲全体の意味するところは1日目では理解が出来なかった。最後の解決される和音が印象的。プログラムの1曲目とは思えない盛大なカーテンコールとなった。
 
 2曲目はR.シュトラウスの「死と変容」。この日のプログラムは3曲とも、「生と死」が共通テーマになっている。この「死と変容」の第1の主題がモチーフとなる前半は、病魔に冒された一人の男が夢うつつの中で闘う様を描いている。この前半部分については京響はR.シュトラウスの緻密なオーケストレーションを見事に再現していた。が・・・、プレトークでのアクセルロッドさんの説明から感じられる思い入れ、あるいは実際のタクトに比べて、オーケストラが一種冷めているというか、楽譜の音は確実に捉えて再現性は高いのだろうけれど、言葉は悪いが「無難」に徹したパフォーマンスとの印象を持った。特に木管の切れ味がイマイチで、オーケストラ全体のハーモニーの見通しも(昨今の京響の実力を思うと)、どうにも冴えない印象が残った。
 ところが、魂が浄化されて天に昇る様を描く第2の主題(よくCMやTV番組の効果音でよく耳にするモチーフ)が変奏する曲の後半になってくると、音に俄然、艶が出て、浄化のテーマが高らかに演奏された後のゆっくりとした場面では、かなりいい音が鳴るようになった。


 しかし、冒頭でも書いたとおり、この日のハイライトが後半の幻想交響曲だったことに、異論を挟む方はいないだろう。その幻想交響曲。第1楽章の提示部の繰り返しは無かったが、第4楽章は繰り返しあり。第2楽章はコルネット付きで演奏された。
 冒頭からオーケストラの音が違った。フルートに導かれ翳りのある曲想が展開していく冒頭のストリングスの美しさから、「これは相当な名演奏になる」と確信した。「想い人」のテーマが流れて曲調が明るくなってからは、かなりの快速テンポで飛ばした。ストリングスの華やかな輝きが印象に残った(特に、音楽家の恋に高鳴る鼓動を表す部分のストリングスの刻みは、「こんな音がでるんだ」と驚くほどの輝きがあった)が、それにも増して木管の上手さが目立った。フルート首席の上野さんも京響の木管陣の音のテクスチュアにマッチし、柔らかく華やかな音を先導している。
 アクセルロッドの指揮は、流れを重視しつつも、盛り上がるような場面の直前には少しテンポを落としてねっとりと攻めていく。この第1楽章もそうで、最も盛り上がる場面の直前、オーボエがソロを取る部分では、じらすようにねっとりと歌い上げた後徐々に加速。ダイナミクスの抑揚も自然ではあるが大きな起伏を伴って聴く者の期待感を煽った。そして音楽は最高潮に達し、ティンパニも加わっての場面では、宝石箱をひっくり返したよう(月並みな表現やなあ・・・)なトゥッティを、怒濤の勢いで演奏する。ホント、なんども書いて申し訳ないが、京響から、いや、日本のオーケストラからこんな音が出るんだ、この音をどう言葉で表現したらよいのか、ついに僕は見つけることが出来ていない。音は磨きに磨き抜かれ、勢いに任せているようで、実に一音一音に神経が通った緻密な音作りに舌を巻いた。

 アクセルロッドさんは、楽章間の休憩はたっぷり取っていた。それだけオーケストラに負荷がかかっている、と見ることも出来るだろう。
 第二楽章も木管陣が極上のハーモニーを奏でる。こんなに柔らかくも美しい音が出せるんですね。この日の木管の音はこれまで僕が聞いてきた中で(海外のオーケストラも含めて)最高のハーモニーを聞かせてくれたと思う。2台のハープの連携も見事。どちらかが引っ張るわけではなく、両者が拮抗するように見事にシンクロしていた。弦楽器もまけてられへん、とばかりに、この楽章で多用されるトリル・装飾音は匂い立つような華の薫りを漂わせる。あまりにも美しすぎて、これが現実の舞踏会では無く、あくまで夢想・妄想の世界の中であることを饒舌に語っているようにも思える。


 第三楽章は、冒頭はくっきりとした色調で始まった。オーボエのバンダは下手側の3階バルコニー席後ろで演奏。今日(1日目)は上手の3階バルコニーで聴いているので、バンダの演奏者もよく見える。
 ホント木管のことばかり書いてしまうんですが、この楽章の鍵を握るオーボエをはじめ、クリネットのソロといい、フルートのソロといい、そしてハモるところの極上の音といい、本当に素晴らしい。他にもたくさん聴き所があるのに、自分の耳が木管の音を追ってしまう。
 ストリングスの「ザザザッザザザッ」という刻みは、第1楽章の鼓動とは違う。「想い人」と幸せな時間を過ごす男の鼓動と気持ちの高まりだろう。非常にフレッシュな音色を出していた。
 曲の後半に向かうにつれ、徐々に病的なけだるさが充満してきたのもアクセルロッドさんの解釈か。アヘン中毒者が見る夢を描いているようだ。一説によると、この曲の主人公である『音楽家』は、「想い人」をこのあたりで殺してしまったようだ。それが証拠に、イングリッシュホルンの呼びかけに応えるのは、おどろおどろしい雷鳴のみ。そんな情景がくっきりと浮かんでくる演奏。

 第4楽章~第5楽章は、第1、2楽章とは対照的。このシンメトリー構造はマーラーも参考にしたのだろうと思う。両極端な世界を対比的に描くのには格好の構造で、マーラーの5番、この幻想交響曲がそれに成功している。
 この2楽章の京響の演奏は、そら凄い者だった。この曲は非常に演奏効果が上がるため、コンサートでよく取り上げられる曲。僕が初めて生コンサートに行ったときも幻想交響曲だった。しかし、満足させる演奏・・・となると、なかなか難しいのではないか。技術や音量・アンサンブル能力など、オーケストラの総合力が試されるからだろう。
 京響の演奏は、特にこの後半2楽章について、もう言葉にならないような物凄い演奏だった。この曲の持つ悪魔的狂気、この曲を生み出したファナティックな時代の雰囲気、それらがオーケストラに乗り移ったかのような鬼気迫る演奏だった。前半2楽章と第3楽章が、磨き抜かれた美しい音楽を聴かせただけに、京響の表現力の幅の広さに圧倒されまくった。
 第4楽章のギロチンの場面から、醜く質した「想い人」が魔女や妖怪たちに交じって踊る様を描く場面のクラリネットの描写力は見事。ホント、小谷口さんのクラリネットの表現力には毎回魅了される。

 アクセルロッドは、このオーケストラのいい部分を引き出すと同時に、ところどころ挑発的にオーケストラを煽っている部分があって、それが最後の2つの楽章では両者の痺れるような緊張感が見どころの一つだった。京響はアクセルロッドの挑発に『倍返し』で応えたように感じた。最後の部分の追い込みは、基調となるテンポが速かったために、今まで聴いたこの曲のアッチェレランドの中でも最速だったが、まったく瑕疵の無い、完璧なバランスの演奏で応えてしまった。

 アクセルロッドさんは、経歴から逆算すると1960年代半ばの生まれということで、50歳前後の働き盛り。指揮者としては中堅の年齢だが、音に対する感覚は若い世代に近いと感じた。油絵の具を塗りつぶすような音作りを嫌い、大トゥッティの場面でも内声部の動きの可視化をはかり、音楽全体をパースペクティブに見せる音楽づくりだ。
 しかし、彼のすごみ、そして京響の底なしの実力を感じたのは、むしろ2日目の公演だった。それについては、記事を改めようと思う。

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 日よけに隠れてしまっているので、今まで気づきませんでしたが、ホールの2階ロビーからは如意が岳(右大文字)が見えるんですね。初秋の空にうかぶ稜線にしばし見とれてしまいました。

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カフェ・モンタージュ 田村安祐美・小峰航一・佐藤禎・塩見亮 [コンサート感想]

カフェ・モンタージュでの1時間

ブラームス/ピアノ四重奏曲第1番

ヴァイオリン:田村安祐美
ヴィオラ:小峰航一
チェロ:佐藤禎
ピアノ:塩見亮


2017年9月1日 カフェ・モンタージュ
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 会場のカフェ・モンタージュには、カフェ営業の時には行ったことがありましたが、ライブははじめて。

ぎちぎちに詰めても70人ぐらいしか入らない空間に響きいたブラームスのピアノ四重奏の濃密なこと! まるで音楽が僕の襟首を掴んで、異世界に連れて行かれるような感覚になった。

 コンサートホールで聴く時の音楽を浴びる、という感覚とは全く違う。格闘技のリングサイドかぶり付きで見ている感覚。

 これは、まさにコンサートというより、ライブだ。


 地下鉄丸太町駅から地上に上がると、落ち着いた中京の町家が並ぶ。実はこのあたりは祖父の代まで住んでいた場所。家があった場所が麩屋町二条なので、このカフェモンタージュからは目と鼻の先で、なんとなく親近感がわく。

 角地に建つコンクリート打ちっぱなしの建物には、すでに開演を待つ列が出来ている。ライブスペースは半地下状になっていて、大きな音を出しても近所迷惑にならないような構造になっている。

 チケット代は2000円。今回は演奏時間は約45分の曲、1曲勝負。そうだとしても安い。70人入っても売り上げは14万円。奏者たちの手元にわたるのはごくわずかだろう。

 今回のメンバーはピアニストの塩見さんに、京響のメンバー3名。塩見さんはブラームスのピアノが含まれる
室内楽曲を少しづつコンプリートしていっている最中とのこと。公演は8/31日と9/1の2日連続公演。弦楽3名は京響の定期演奏会のリハーサルの真っ最中の時期の筈(じっさい、3名とも本番にも乗ってらっしゃった)。なんとタフなことか。

 ピアノ四重奏の編成は、ヴィオラが内声をやるだけでなく、ヴァイオリンを受けて丁々発止のやり取りを受けて立つ場面が多い。いわば弦楽四重奏でいうと第2ヴァイオリンとヴィオラの役目、両方担う感じ。

 その小峰さんのヴィオラの存在感がハンパ無い。ここ数年、室内楽の生コンサートを聴いて、ヴィオラ奏者のレベルの高さが、満足度に比例するとの実感があり、この日はいう事の無いバランスだった。 この曲、第1楽章の冒頭で示されるモチーフは、決して馴染みやすくはない。どこか落ち着きどころのない雰囲気が漂っていて、無調音楽の世界を切り開いたシェーンベルクが偏愛したというのもなんとなく得心がいく。
 でも、流石にブラームス、曲が展開するにつれ、ロマンティックでメランコリックな世界が目くるめくように展開する。

 冒頭にも書いた通り、小さい空間に響くプロの本気の演奏にはガツン!とやられた感じ。19世紀にもこんな感じの小さい空間で数十人の人々が大いに楽しんだことだろう。


 室内楽の新たな世界に触れた一夜だった。

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