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京都市交響楽団第616回定期演奏会(1日目) アクセルロッド指揮 [コンサート感想]

京都市交響楽団第616回定期演奏会(1日目公演)


武満徹/死と再生
R.シュトラウス/交響詩「死と変容」
ベルリオーズ/幻想交響曲

指揮:ジョン・アクセルロッド
コンサートマスター:泉原隆志

2017年9月2日 京都コンサートホール大ホール
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 京響の感想をここにしたためるたびに、「凄い」「上手い」「文句なし」など、賛辞・美辞麗句を並びたてるんですけど。。

 今日の後半のベルリオーズの演奏の切れ味・隙のなさ・迫力・表現の多彩さ、すべてについて「参りました!」と、言うほかはありません。

 アクセルロッドのスリリングな真剣な挑発に、真剣に「倍返し」をしてみせた、後半の2楽章は圧巻の一言、作曲された時代のファナティックな雰囲気を、そら恐ろしいまでに表現してみせた。

 安らかな牧歌で始まり、これ以上ない緊張感で終わる中間楽章。そして、第二楽章の舞踏会の華やかさや儚さは、木管陣の奮闘が光る。大フィルから移籍した上野さんを含む木管陣は再び磐石の布陣になった。夢のような調和と美、世界を見渡しても、京響の木管はトップクラスだ。ずっとこの調和と美を味わっていたい、そう思わせるものがあった。

 「死と変容」は、変容(浄化)のモチーフが出てくる中盤から最後までは見事な演奏。幻想交響曲でもそうだったが、弦楽器の分厚い響きは、かつての京響のイメージを覆すに充分。ただし、この曲の前半は…。明日の楽しみのために敢えて感想は書かないで置こうと思う。

※9/3追記、意味深な書き方になったが、「死と変容」は特に事故やミスがあったわけでありません(笑)後半に比べて、ちょっと・・・・物足りなかった、というだけです。


9/8追記

 あのコンサートから一週間が経とうとしているが、じっくりPCの前で腰を据える時間が取れなかった。それでも、まだ頭の中に鮮明に残っているのは、それだけ素晴らしい演奏に接したということだろう。

 オーケストラの編成は14型、1stVn14→2ndVn12→Vc8→Va10、チェロの後ろにコントラバス。チェロの首席にはN響の藤森さんが座りました。渡辺穰さんがフォアシュピーラーに座ったため、ファーストVnのトッププルトは泉原さんとのダブルコンマス。楽団のアクセルロッドさんに対する期待が伺われます。お客さんの入りはう~ん、7割5分といったところでしょうか・・・。

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 武満徹の「死と再生」は管楽器を入れない弦楽合奏での演奏。特にヴィオラ・チェロの響きに透明感があり、純水が滴り落ちるような魅力的な音を奏でていた。ハーモニクス奏法なども駆使する、技巧的な側面もある曲だが、京響はまったく安定していた。京響の特質は武満に合っていると思うので、もっと演奏されて欲しいな、と思う。
 アクセルロッドさんのプレトークによると、この曲のナチュラルな、寄せては返す波のような音のダイナミクスは、生命と死の輪廻転生を意味しているとのことだった。決して聞きにくい曲では無いが、この曲全体の意味するところは1日目では理解が出来なかった。最後の解決される和音が印象的。プログラムの1曲目とは思えない盛大なカーテンコールとなった。
 
 2曲目はR.シュトラウスの「死と変容」。この日のプログラムは3曲とも、「生と死」が共通テーマになっている。この「死と変容」の第1の主題がモチーフとなる前半は、病魔に冒された一人の男が夢うつつの中で闘う様を描いている。この前半部分については京響はR.シュトラウスの緻密なオーケストレーションを見事に再現していた。が・・・、プレトークでのアクセルロッドさんの説明から感じられる思い入れ、あるいは実際のタクトに比べて、オーケストラが一種冷めているというか、楽譜の音は確実に捉えて再現性は高いのだろうけれど、言葉は悪いが「無難」に徹したパフォーマンスとの印象を持った。特に木管の切れ味がイマイチで、オーケストラ全体のハーモニーの見通しも(昨今の京響の実力を思うと)、どうにも冴えない印象が残った。
 ところが、魂が浄化されて天に昇る様を描く第2の主題(よくCMやTV番組の効果音でよく耳にするモチーフ)が変奏する曲の後半になってくると、音に俄然、艶が出て、浄化のテーマが高らかに演奏された後のゆっくりとした場面では、かなりいい音が鳴るようになった。


 しかし、冒頭でも書いたとおり、この日のハイライトが後半の幻想交響曲だったことに、異論を挟む方はいないだろう。その幻想交響曲。第1楽章の提示部の繰り返しは無かったが、第4楽章は繰り返しあり。第2楽章はコルネット付きで演奏された。
 冒頭からオーケストラの音が違った。フルートに導かれ翳りのある曲想が展開していく冒頭のストリングスの美しさから、「これは相当な名演奏になる」と確信した。「想い人」のテーマが流れて曲調が明るくなってからは、かなりの快速テンポで飛ばした。ストリングスの華やかな輝きが印象に残った(特に、音楽家の恋に高鳴る鼓動を表す部分のストリングスの刻みは、「こんな音がでるんだ」と驚くほどの輝きがあった)が、それにも増して木管の上手さが目立った。フルート首席の上野さんも京響の木管陣の音のテクスチュアにマッチし、柔らかく華やかな音を先導している。
 アクセルロッドの指揮は、流れを重視しつつも、盛り上がるような場面の直前には少しテンポを落としてねっとりと攻めていく。この第1楽章もそうで、最も盛り上がる場面の直前、オーボエがソロを取る部分では、じらすようにねっとりと歌い上げた後徐々に加速。ダイナミクスの抑揚も自然ではあるが大きな起伏を伴って聴く者の期待感を煽った。そして音楽は最高潮に達し、ティンパニも加わっての場面では、宝石箱をひっくり返したよう(月並みな表現やなあ・・・)なトゥッティを、怒濤の勢いで演奏する。ホント、なんども書いて申し訳ないが、京響から、いや、日本のオーケストラからこんな音が出るんだ、この音をどう言葉で表現したらよいのか、ついに僕は見つけることが出来ていない。音は磨きに磨き抜かれ、勢いに任せているようで、実に一音一音に神経が通った緻密な音作りに舌を巻いた。

 アクセルロッドさんは、楽章間の休憩はたっぷり取っていた。それだけオーケストラに負荷がかかっている、と見ることも出来るだろう。
 第二楽章も木管陣が極上のハーモニーを奏でる。こんなに柔らかくも美しい音が出せるんですね。この日の木管の音はこれまで僕が聞いてきた中で(海外のオーケストラも含めて)最高のハーモニーを聞かせてくれたと思う。2台のハープの連携も見事。どちらかが引っ張るわけではなく、両者が拮抗するように見事にシンクロしていた。弦楽器もまけてられへん、とばかりに、この楽章で多用されるトリル・装飾音は匂い立つような華の薫りを漂わせる。あまりにも美しすぎて、これが現実の舞踏会では無く、あくまで夢想・妄想の世界の中であることを饒舌に語っているようにも思える。


 第三楽章は、冒頭はくっきりとした色調で始まった。オーボエのバンダは下手側の3階バルコニー席後ろで演奏。今日(1日目)は上手の3階バルコニーで聴いているので、バンダの演奏者もよく見える。
 ホント木管のことばかり書いてしまうんですが、この楽章の鍵を握るオーボエをはじめ、クリネットのソロといい、フルートのソロといい、そしてハモるところの極上の音といい、本当に素晴らしい。他にもたくさん聴き所があるのに、自分の耳が木管の音を追ってしまう。
 ストリングスの「ザザザッザザザッ」という刻みは、第1楽章の鼓動とは違う。「想い人」と幸せな時間を過ごす男の鼓動と気持ちの高まりだろう。非常にフレッシュな音色を出していた。
 曲の後半に向かうにつれ、徐々に病的なけだるさが充満してきたのもアクセルロッドさんの解釈か。アヘン中毒者が見る夢を描いているようだ。一説によると、この曲の主人公である『音楽家』は、「想い人」をこのあたりで殺してしまったようだ。それが証拠に、イングリッシュホルンの呼びかけに応えるのは、おどろおどろしい雷鳴のみ。そんな情景がくっきりと浮かんでくる演奏。

 第4楽章~第5楽章は、第1、2楽章とは対照的。このシンメトリー構造はマーラーも参考にしたのだろうと思う。両極端な世界を対比的に描くのには格好の構造で、マーラーの5番、この幻想交響曲がそれに成功している。
 この2楽章の京響の演奏は、そら凄い者だった。この曲は非常に演奏効果が上がるため、コンサートでよく取り上げられる曲。僕が初めて生コンサートに行ったときも幻想交響曲だった。しかし、満足させる演奏・・・となると、なかなか難しいのではないか。技術や音量・アンサンブル能力など、オーケストラの総合力が試されるからだろう。
 京響の演奏は、特にこの後半2楽章について、もう言葉にならないような物凄い演奏だった。この曲の持つ悪魔的狂気、この曲を生み出したファナティックな時代の雰囲気、それらがオーケストラに乗り移ったかのような鬼気迫る演奏だった。前半2楽章と第3楽章が、磨き抜かれた美しい音楽を聴かせただけに、京響の表現力の幅の広さに圧倒されまくった。
 第4楽章のギロチンの場面から、醜く質した「想い人」が魔女や妖怪たちに交じって踊る様を描く場面のクラリネットの描写力は見事。ホント、小谷口さんのクラリネットの表現力には毎回魅了される。

 アクセルロッドは、このオーケストラのいい部分を引き出すと同時に、ところどころ挑発的にオーケストラを煽っている部分があって、それが最後の2つの楽章では両者の痺れるような緊張感が見どころの一つだった。京響はアクセルロッドの挑発に『倍返し』で応えたように感じた。最後の部分の追い込みは、基調となるテンポが速かったために、今まで聴いたこの曲のアッチェレランドの中でも最速だったが、まったく瑕疵の無い、完璧なバランスの演奏で応えてしまった。

 アクセルロッドさんは、経歴から逆算すると1960年代半ばの生まれということで、50歳前後の働き盛り。指揮者としては中堅の年齢だが、音に対する感覚は若い世代に近いと感じた。油絵の具を塗りつぶすような音作りを嫌い、大トゥッティの場面でも内声部の動きの可視化をはかり、音楽全体をパースペクティブに見せる音楽づくりだ。
 しかし、彼のすごみ、そして京響の底なしの実力を感じたのは、むしろ2日目の公演だった。それについては、記事を改めようと思う。

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 日よけに隠れてしまっているので、今まで気づきませんでしたが、ホールの2階ロビーからは如意が岳(右大文字)が見えるんですね。初秋の空にうかぶ稜線にしばし見とれてしまいました。

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