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新日本フィル倉敷公演 上岡敏之 指揮 [コンサート感想]

第98回くらしきコンサート
新日本フィルハーモニー交響楽団

シューベルト/交響曲第1番ニ長調
~休憩~
マーラー/交響曲第1番ニ長調「巨人」
指揮:上岡敏之
コンサートマスター:崔文洙
倉敷市民会館
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 平日の夜公演ということで、お客さんの入りは5割5分ぐらい?東京のオーケストラシーンでは、9月からの音楽監督就任を前に、かなり話題になっているこのコンビ。しかし、やはり地方都市の岡山・倉敷ではどこ吹く風なのか?
 かくいう私も、実は遅刻したのです。倉敷駅到着時点で7時過ぎ。タクシーに乗れば、シューベルトの第3楽章ぐらいには間に合うかも・・・と思いましたが、まあ、今日のメインはやっぱりマーラーだし、ゆっくり歩いて行くことに。到着するとちょうどシューベルトの第4楽章の演奏が館内放送で流れていました。
 これが、なんとも透き通るような弦の響き、輝かしい金管、ダイナミックに変化するテンポ。スピーカーから流れる音楽を聴いただけで、シューベルトの佳作を見事に料理した演奏であることがわかり、「こりゃー、タクシーで来て、聴けるだけ聞いとくべきやったな・・・」と思いました。

 後半のマーラー1番。期待にたがわぬ、心動かされる演奏でした!お客さんの入りがイマイチだったことは冒頭で触れましたが、その分、くらしきコンサートさん恒例の学生を招待して(それもS席の位置に、これはいい思い出になるでしょうね)いたんですが、終演後に見かけた女子高生の中には感動して泣いているのか、目が真っ赤なんですよ。皆さんものすごく興奮した様子で、パンフレットに書かれていた、上岡さんの思い「これが新日本フィルの音だ」とわかるオーケストラ、人を感動させることができるオーケストラ、そのうちの一つは就任前にすでに達成している、そう感じます。

 高校生にしてみれば、「交響曲って、こんなに自由でいいんだ」「遊んでいいんだ」という驚きから、表現のパレットの多彩さ、特に弱音部分でクリスタルが輝くような繊細な表現、大トゥッティでの地鳴りのような迫力。パウゼの空間に浮かぶ、切ないまでに美しい残音。どれもが得難い経験だったでしょう。
 そう、上岡&新日本フィルは大いに「遊んで」いた。奏者も指揮者も作曲家も、真剣に人生を賭けた遊び。テンポの緩急やダイナミクスの表現の振幅が大きく、それは薄氷を踏むような緊張感の連続、あるいはひとつ間違えば奈落の底に落ちる、剣ヶ峯の尾根を渡るような大冒険、と言ったらよいだろうか。

 予想通りというか、上岡さんのタクトは一筋縄ではいかない解釈だったんです。まず特徴的だったのは第1楽章の夜明けの場面で、チェロが5度6度の音程をグリッサンで上がり下がりする。はじめは違和感があったんですけど、曲が進んでくると、第2楽章のスケルツォの第1主題や、第3楽章の中間部、あるいは第4楽章冒頭の地獄の場面から一気に天国的な場面へ変わった後には、ほとんどの指揮者がグリッサンドやポルタメントを多用する演奏をしているわけだから、それを全曲に展開することによって世紀末的なロマン派の落日の輝きを際立たせる効果を狙ったとすると、特別奇異なことをしているわけでは無かったな~という印象です。
 配置は14型のストコフスキー(ステレオ)配置。ヴィオラがアウトに位置。夜が明けて朝の場面になると、ヴァイオリンが本当に繊細に繊細に歌うように・・・どうか、これはさすらう若人の歌そのものだった。名歌手が情感を込めてまさに肉声で歌うようなヴァイオリンの旋律が心に残る。マーラーの作る旋律って、どこから始まって終わるかわからない、美しい魅力的なメロディーが延々続く、上岡さんは息の長さを求める、

 第2楽章に入っても、一本ねじが外れたような、あるいは酔いが回っているような、踊りが緩急自在に展開。とにかく単位時間あたりの情報量があまりにも多いのですべては書けませんが、これ、いろんな仕掛けがしてあってリハーサルで徹底させるの、大変だったやろうな…

 この日の演奏で特筆すべきは弱音、微弱音の部分の音のテクスチャーの作り込み、第3楽章 第4楽章のフィナーレの前の静けさの場面。マーラーの楽曲はこの世とあの世が繋がっているような、まさに「神が死んだ」時代の音楽で、音楽そのものが宇宙であり神であるような感覚になるのがたまらないのですが、あの弱音はまさに神業であり、ホールで聴いている我々はマーラーの1番というご神体を詣でた巡礼者だったのかもしれない。心が洗われる「ような」ではなく、心が洗われ、イニシエーションを体験したような浄化された感覚がありました。

 最終楽章は、冒頭から快速テンポで始まりましたが、天国的な部分ではゆっくりゆったりとした展開(ホント、あまりの美しさに涙出た!)、また地獄へ突き落されてテンポを速め、勝利のマーチっぽいところでも快速・・・
 といったように、俗と聖、父性と母性、または暴力とエロスと言い換えても良いか?父性的な部分はどんどんとテンポを速め、母性的な部分はよりゆっくりとしていく。場面が交代するごとに、両者のコントラストが強烈になる、という構成にしていたのではないかと思います。

 新日本フィルの音も、在東京オケのハイレベルさを実感させるに十分な演奏でした。
 第1楽章のAの音のフラジョレットの澄んだ音!そのあとに続くピアニシッシモ、第3楽章の弱音も素晴らしい。こんな繊細で透明感があってクリスタルのような輝きがある音は、海外のオケでもなかなか聴けない。
 しかし一方で不満も少し。音の厚みがイマイチ物足りない。正直言うと「薄い」。80年代の典型的な市民会館的建築の倉敷市民会館の天井桟敷で聴くと、音が充分に飛んできません。上岡さんと共に来てくれたヴッパータール交響楽団も問題なく鳴らし切っていたし、パリ管やバイエルン放送響になると、座席に押し付けられるような音圧が迫ってきたものですが・・・

 上岡さんとのコンビもまだまだ熟成しきっていない(上岡さん&崔コンマスの意思を反映しきっていない)部分もあり、これからのこのコンビが楽しみになりました。ミスの無い完璧な演奏も魅力ですが、「何が飛び出すかわからない」という演奏はそれを凌駕する魔力があります。
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 上岡さんは、大フィルを一度振ってみると面白いかもしれない。大フィルのドラマティックなサウンドや、息の長さ深さが上岡さんのタクトで一層生きるような気がします。
 この新日本フィルをはじめ、今後は国内オーケストラでも上岡さんのタクトを見るチャンスが多くなることに期待したいですね。

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倉敷のヴィルトゥオーゾ ピアノ・クインテット [コンサート感想]

第30回倉敷音楽祭
倉敷のヴィルトゥオーゾ・ピアノ・クインテット

プログラム
ショパン/英雄ポロネーズ(松本和将)
エルガー/愛の挨拶、クライスラー/シンコペーション(守屋剛志)
チャイコフスキー/ワルツ・スケルツォ(黒川侑)
ジンバリスト/「サラサーテアーナ」よりタンゴ(中村洋乃理)
ピアソラ/ル・グランタンゴ(趙静)
~休憩~
ブラームス/ピアノ五重奏曲ヘ短調

ピアノ:松本和将
ヴァイオリン:守屋剛志
  〃   :黒川侑
ヴィオラ:中村洋乃理
チェロ:趙静

2016年3月12日 倉敷市芸文館

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※観光シーズンに突入した倉敷美観地区の向こうに望む、倉敷市芸文館

 今年で30回目を数える倉敷音楽祭。90年代には東のサイトウキネン・フェスティバル、西の倉敷音楽祭と評せられるほど、その特別編成のオーケストラが栄光の歴史を飾ってきましたが、国内第1級の奏者によるプロフェッショナル・オーケストラ演奏を廃止してから、音楽雑誌に取り上げられることも少なくなり、存在感が薄らいでいた。
 しかし、特別ゲストの趙静さん以外の4人は倉敷にゆかりのある地元出身の20代・30代の奏者の共演ということで、30年の音楽祭の歴史はようやく豊饒な収穫期に入った、そう感じさせるにふさわしいコンサートになりました。
 やっぱりこの手のイベントは、続けることにまず意義がある。そのことを証明したと思います。

 前半は、それぞれソリストとして、あるいは室内楽奏者として、あるいはオーケストラ奏者として、それぞれのプロフェッショナルの特徴を感じさせるソロ演奏が展開されましたが、後半はそんな彼らがカルテットの経験豊富な守屋さんと室内楽伴奏の経験豊富な松本さんのリードの元、非常に血沸き肉躍る様なエキサイティングな素晴らしい演奏を聴かせてくれました。

(詳細な感想は後日)
 

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岡山フィル第49回定期演奏会 「ドイツ・レクイエム」 [コンサート感想]

岡山フィルハーモニック管弦楽団 第49回定期演奏会
~東日本大震災心の復興祈念コンサート~

オネゲル/交響曲第3番「礼拝」
~休憩~
ブラームス/ドイツ・レクイエム

指揮:ハンスイェルク・シェレンベルガー
管弦楽:岡山フィルハーモニック管弦楽団
ソプラノ:秦 茂子
バス:ドミニク・ヴェルナー
合唱:仙台宗教音楽合唱団
   山響アマデウスコア
   盛岡バッハ・カンタータ・フェライン
   岡山バッハカンタータ協会
監修・合唱指揮:佐々木正利
ゲストコンサートマスター:長原幸太

2016年3月4日(金) 岡山シンフォニーホール
 
 ドイツ・レクイエムの最後の審判の場面。いつも冷静沈着で無駄な動きの無いスマートな指揮をなさるシェレンベルガーが、鬼神のごとく体全体で音楽を表現しようとし、それに応えてオーケストラと合唱団が火の玉のような演奏を繰り広げ・・・、感極まってしまいました。

 筆舌に尽くしがたい感動、とはまさにこのことで、ブログに感想を起こそうと思いますが、何を書いても嘘くさくなってしまいそうで、当分記事を書かずに寝かせるかも知れません。

 恐らく岡山フィル演奏史上、いや、岡山でのクラシック演奏史上、最高の演奏の一つになった子とは間違いありませんし、聴衆もよく集中して聴いていました。何もかもが一体となって、忘れえぬ演奏になりました。私も含めて一部の聴取が合唱団が舞台から去るまで客席で見守っていたのも印象的だったし、ホールの出口から出た時に、合唱団の方々に皆さん「ありがとう」「東北でも頑張って」と声をかけているのも印象的。友人や顔見知りでなくても声を掛け合うような雰囲気が残っていました。

 東北からの合唱団は思いのほかたくさんの団員さんが岡山に駆け付けて下さった。同じ合唱指揮者を頂く合唱団とは言え、4つの団体がこれほどまでに一体感のある演奏が出来るものだろうか。驚愕に値します。

1曲目のオネゲルも含めた詳しい感想は後日にさせてください。

 このコンサートは、岡山フィルの定期演奏会であったのと同時に、東日本大震災心の復興祈念コンサートの一発目の演奏でもありました。東北ではその開催地の合唱団が主体にメンバー編成がなされることでしょうが、いずれも素晴らしい演奏になる筈です。

 できれば、東北3県の皆さんにも、この演奏を聴いてほしい、そう思います。

・2016年3月6日(日)盛岡公演 19:00~
 会場:盛岡市民文化ホール

・2016年3月8日(火)仙台公演 19:00~
 会場:イズミティ21

・2016年3月9日(水)山形公演 19:00~
 会場:山形テルサ

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(3月11日追記 震災の犠牲者への祈りを込めながら…)

 ホールは完売御礼・満席です。
 平日のソワレの岡山フィル定期演奏会というのも珍しいのですが、今回は東北の復興祈念ツアーが組まれている事もあって、金曜日の夜の開催でしたが。会場は満席でチケットも2週間前に完売だったそうです。

 前半のプログラムは、オネゲルの交響曲第3番「礼拝」。どちらかと言えば「典礼風」という副題の方がなじみ深い曲です。

 編成は14型のストコフスキー配置。
 シェレンベルガーが現代モノを振るのを拝見するのはこれで2回目。関西フィルなどではショスタコーヴィチも取り上げていて(5番のコンサートに行きました)、現代ものも得意なのは知っていましたが、あまり現代音楽の経験の少ない岡山フィル(オネゲルは、たぶん過去に高関さんの指揮で取り上げていた記憶がありますが)を絶妙にコントロールして、フォルテのトゥッティーでも、音がよくまとまりつつ、非常に明晰で見通しの良い音楽でした。現代音楽的な不協和音が鳴り響く曲なのに、それを古典楽曲のレパートリーの一つにしてしまうような解釈でした。

 しかし、やっぱりオーディオで聴くのとは違いますねぇ・・・、第1楽章の弦5分のオスティナートを軽めに仕上げ、そこに多種多彩な打楽器の色が奥行きを与える。第3楽章の平安・安寧の音楽も岡山シンフォニーホールの反響を上手く利用して、非常に広がりのある音楽になっていました。
 ひとつ欲張るとしたら、やはり経験値の少ない曲と言う事もあって、各パートが自身のパートの音楽を展開する事に集中して、もっとお互いのパートを聴き合い、触発・挑発し合うアンサンブルのスリリングさのようなものがあればよかった。こういうことを非常設オケの岡フィルに求めるのは酷な気もしますが、そういう演奏を隣の広響がやっているのを聴いたりしていると、聴衆としてもつい欲張ってしまいます。岡フィルにもシェレンベルガーの元でここまでやってきたからには、もうひとつ段階が上のステージへ行って欲しいのです。 

 後半はブラームスのドイツ・レクイエム。
 シェレンベルガー氏の指揮では、一昨年1月のヨハネ受難曲に続いての宗教合唱曲となりましたが、とにかく音楽の巨大さ美しさ、そこに内包される死生観、とてつもない曲です。ドイツ・レクイエム。マーラーの9番やブルックナーの8番よりも凄い曲かも、そう思いました。

 バッハなどのカトリック圏の宗教曲は、サンクトゥス、キリエ、グロリアなどといったお決まりの歌詞があり、恐らく聖書に親しみのあるクリスチャンなら、その意味するところの共通理解があると思うんですが、私のようにゆるーい仏教徒である日本人には、聖書の定型文の知識も薄く、なかなかなじめない部分がある。
 それに比べると、このドイツ・レクイエムはロマン派のメロディーに溢れ、その歌詞の内容は、乱暴に一言で言ってしまえば「諸行無常」。第2曲・第3曲で言っていることは、まさに諸行無常そのものです。

 バリトン・ソロで歌われる第3曲は、たとえイスラム教徒であろうと、仏教徒であろうと、無神論者であろうと、あるいは19世紀の人も21世紀の人も、区別なく「この限りある命と日常の慌ただしさのはざまにあるむなしい気持ち」は存在する。のちのマーラーによる「大地の歌」でも歌われる近代自我そのものです。だから共感しやすい。

 全体の感想は冒頭でも述べたとおりです。この感動の深さは到底、私の筆力では表現しきれないもので、とにかく凄かった・素晴らしかった、としか表現の仕様が無い。
 あとはディテールな部分の自分のための覚書のようになります。

・開始の部分はかなりノンヴィヴラートを徹底した演奏でしたが、全体としては部分部分で効果的にノンヴィヴラートを使うにとどめていました。シェレンベルガーのタクトは、第1曲では割合快速テンポで始まったものの、バリトンソロやソプラノソロではじっくりと聴かせ、合唱の部分でも呼吸と音楽の持つ鼓動を大事にしていると感じた。オーケストラ曲とはまた違った音楽づくりを見せて頂きました。

・秦茂子さんのソプラノは声量の豊かさはさることながら、それに加えて第九で魅せた力強さ、ヨハネ受難曲で魅せたドラマティックさとはまた違う、それぞれの楽曲に求められている声というものを選択して、大いなる母のような包容力のある歌唱でした。これまで三曲三様の歌唱を見せたのは脱帽。シェレンベルガー氏が指名し続けるのも分かります。

・2台のハープをシェレンベルガー夫人と愛娘が担当しました。こんなにハープの音が色々と鍵を握っている曲だとは再発見でした。

・ドミニク・ヴェルナーのバリトンも、僕のバリトンに対するイメージを覆す透徹した美しい声色で心に残った。シェレンベルガーの求めるオーケストラの響きともよく合っていました。

・曲名にもなっているように、歌詞はドイツ語です。音源で聴くドイツ・レクイエムは重心が低く威厳があって重々しい演奏が多かった。しかし、この日に聴いたドイツ・レクイエムの表現の豊かさは何だろう!最後の審判の場面ではドイツ語の持つ独特の持つ観念的な発音が、過度に感情に走るのを防ぎ、それが事態の重々しさを一層強調する感じになる一方で、第5曲の「天井から地上への呼びかけ」では、ドイツ語の持つ母性的な響きがたいへん印象的だった。第7曲の最後の場面は、こんなに澄み切った音楽になるのか、とそのまばゆいまでの透明感が強く印象に残った。そういえばマーラーの大地の歌も最後の場面は、たいへん印象深い余韻を残すけれど、ドイツ語にはそういった沈黙を支配する力があるのかもしれない。

・最も印象的だったのは、やはり第6曲だった。この曲の勝負所と心得ていたのは、非常に訓練されたオーケストラトラからも、一糸乱れぬうねりを見せた合唱からも、よく準備されていた形跡がうかがえたが、冒頭でも書いた通り、普段は沈着冷静なシェレンベルガーの、鬼神が乗り移ったような、背中から炎が上がる様なタクト。そのタクトに触発され、オーケストラも合唱団も壮絶な演奏であった。あの時ステージでは何と戦っていたのだろうか?何が乗り移っていたのだろうか?僕にはわからない。東北の皆さんには大変申し訳ないんだけれど、僕の頭に浮かんだのは、阪神大震災後に1か月後に故郷の神戸に入った時に感じた、行き場のない怒りだった。どうしてこんな目に遭わなあかんのや!という理不尽さ。

・そして終局の、なんという光に包まれた音楽であることか!僕はこの瞬間を忘れない。そして、こんなに温かい気持ちで、このホールで音楽を聴いたことが過去に一度だけあった。そのことを思い出していた。

・シェレンベルガーといえばカラヤンに才能を見いだされた。山陽新聞に掲載された岡フィル首席指揮者の週にインタビューでも、「私の中にあるカラヤンの音楽を出していきたい」というようなことをおっしゃっていた。
 しかし、僕はずっとこれまで違和感を感じていた。カラヤンの残した録音とシェレンベルガーが紡ぎだす音楽の間に大きなギャップを感じていた。しかし、ここへきてようやくわかった。シェレンベルガーの音楽に影響を与えた人物は、実はもう一人いて、その人物の音楽が、このドイツレクイエムの間に息づいていることを。よくよく調べてみると、その人物は、岡フィルと岡山バッハカンタータ協会、東北の合唱団、そして我らが首席指揮者:シェレンベルガー氏、すべてをつなぐ人物だった。それについては回を改めて書きたいと思います。
・未曽有の災害の祈りのためのコンサート。過剰な演出もなく、ただ音楽だけがそこにあったコンサートだった。このシェレンベルガー&岡山フィル&岡山と東北の混成の合唱団という大きなプロダクションは東京には行かなかった。地方都市と位置づけられる岡山・盛岡・仙台・山形で演奏されただけだった。  
 当然、全国ネットのテレビのニュースになることもないし、すべての会場に集まった人を全員カウントしても6000人程度なのかもしれない。しかし、その成果は、たぶん20年後、30年後に静かに表れて来る。「そういえば何もかも『東京』に収奪されていた、震災復興といいながら『東京』が復興の邪魔ばかりしていた、あの『東京時代』の終焉の嚆矢となった東京オリンピックが開かれる何年か前に、岡山と東北三都市で、あんなコンサートがあった」このことが語られる時代がきっと来ます。

※ここでの『東京』とは、ある種の記号であって、実際に東京に住む方々を揶揄するものではありません。

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