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シェレンベルガーファミリーと岡フィルの仲間たち [コンサート感想]

Jホールレインボーコンサート vol:28
シェレンベルガーファミリーと岡フィルの仲間たち
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ドビュッシー/2台のハープのための神聖な舞曲と世俗的な舞曲
 Hp:マルギット・アナ=シュース、ヨハンナ・シェレンベルガー
モーツァルト/ピアノと管楽のための五重奏曲変ホ長調 K.452
 Ob:ハンスイェルク・シェレンベルガー、Cl:磯部修平、Fg:西牧岳、ホルン:奥村邦子、ピアノ:芦田田鶴子 
ドビュッシー/フルート、ヴィオラとハープのためのソナタ
 Hp:マルギット・アナ=シュース、Fl:三瀬直子、Va:木下雄介
モーツァルト/セレナード第12番ハ短調 K.388(384a)
 Ob:ハンスイェルク・シェレンベルガー、沼佳名子、Fg:西牧岳、小野エリコ、ホルン:奥村邦子、濱賢司、Cl:磯部修平、松本典子

2016年2月29日 岡山大学 Junko Fukutake Hall
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 前回、このホールでシェレンベルガー氏とアナ=シュースさんのデュオを聴いたのは、2年前の10月、台風で大雨洪水警報が出ている中でのコンサートでした。
 今日も春の嵐が吹き荒れています。写真では天気がいいように見えますが・・・・

 15分前に到着した会場。既に満員の様相を呈しています。月曜日の昼間のコンサートでこの入り。皆さん、ええ身分だなあと言いつつ、今回は私もその仲間入り。当然出勤日ですが、代休が2.5日も溜っていた(溜めていた?)ため、ここぞとばかりに消化しました。終わってみれば、このコンサートが500円で聴けるなんて・・・、安い、恐るべきコストパフォーマンスでした。
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 1曲目はアナ=シュースさんと、シェレンベルガーご夫妻の愛娘、ヨハンナさんによる演奏。ヨハンナさんは現在ミュンヘン国立音楽大学に在学中とのことですが・・・音大生のレベルの演奏ではなく、世界でも五指に入る名ハーピストの母親と渡り合っていました。恐るべしシェレンベルガーファミリー。
 ドビュッシーのこの曲、本当に不思議な曲。ルネッサンス音楽のようにも感じるし、エキゾチックな、そして日本人にとっても、どこか懐かしみを感じるような音楽。

 2曲目はモーツァルトのちょっと面白い編成のクインテット。曲の面白みはピアノと管楽器の掛け合い。やはりシェレンベルガーのオーボエの音が際立っているのは間違いないんですが、管楽器4本が絶妙なアンサンブルを奏でていて、完全に息が合っている。こういう時の演奏は聴いていて本当に気持ちがいいのです。第1楽章終了後に盛大な拍手が起こってしまったのは、客席もステージと呼吸を一つにして聴いていたことの証かも。

 休憩を挟んで3曲目は、ドビュッシーに戻ってフルート、ヴィオラとハープのためのソナタ。ドビュッシー晩年の傑作群の管楽器を中心としたソナタ6部作のうちの一つ。
 フルートとハープの透明感のある音に、楚々とした低音を発するヴィオラを配置したドビュッシーのセンスに脱帽です。三瀬は、これほど絵にかいたような上品で高貴な、まるで妖精が舞い降りたようなフルートの演奏があるだろうか?と思わせる。それを支えるアナ=シュースさんの気高さも凄い。ヴィオラの木下さんも一番音色には気を遣うポジションながら、こんないいヴィオラ奏者が岡フィルにいたんだ、と瞠目させられるセンス抜群の演奏。三瀬さんと木下さんは、この1曲のみの登場だったのが残念に思うような、なかなかの聴きものでした。

 そして最後のモーツァルトのセレナード12番が白眉。
 モーツァルトの短調作品に凡作なし、のとおりの傑作。岡フィルメンバーはよく自らを鍛えてこのステージに臨んでいるのが分かります。率直に、予想をはるかに超えて素晴らしかったです。
 それもやはりシェレンベルガーの存在抜きには語れないでしょう。水は低きに流れ音楽は高みへ流れるという言葉が頭をよぎります。
 岡フィルの7名のメンバーの中に、あれほどの経験と実績と実力を備えた奏者が加わると、これほどまでに全員を高みに引き上げるのか?という好例だと思います。音楽は疾走し、ホールに中央ヨーロッパの風を確かに感じた、見事な演奏でした。もしかすると、この日のこのアンサンブルの経験は岡フィルの木管陣にとって大変な財産になったのではないか?そんな気がします。

 ガラス張りのJホールは、外で巻き起こる嵐のような風とは無縁ながら、春を告げるような青空がまぶしい。この日の演奏と青空を忘れることは無いでしょう。

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最後の印象派~もうひとつの輝き~展 ひろしま美術館 [展覧会・ミュージアム]

最後の印象派展 ~もうひとつの輝き~
ひろしま美術館

(後日更新します)

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広島交響楽団第357回定期演奏会 指揮:高関健 [コンサート感想]

また広響が忘れられない演奏をやってくれました。

広島交響楽団第357回定期演奏会《私たちは忘れない》

ベートーヴェン:付随音楽「献堂式」ハ長調
糀場富美子:摂氏4000度からの未来
ショスタコーヴィチ:交響曲第10番ホ短調

指揮:高関健

2016年2月19日(金) 広島文化学園HBGホール

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 ショスタコーヴィチは高関さんらしく、手先足先まで神経が行き届いたタクトに、広響も一体となった演奏で答えていた。今の広響は聴いていて本当に気持ちがいいんです。特に好きなところは、ヨーロッパの楽団のように各パートが有機的に結びついて泉のように音楽が湧いてくるような一体感のある演奏。
 それを支えているのは、各パートのお互いの音に関心を払い触発して生み出す豊かな営みを感じることです。ヴィオラの安保さんやチェロのマーティンさんあたりをみていると、自分のパートの出番がない場面でも、常にテンポを感じ音楽を感じているのが分かります。お互いが出す音楽に対して決して無関心にならず、寄り添い触発し合う音の中での会話量が本当に豊富なんだろうなあっていうのが見ていてすごく伝わってくる。
 これって、在東京の実力の高いオーケストラを聴いていても、時々不満を感じることがあるんです。おのれのパートは完ぺきかもしれないが、出番が無いところでは、まるでよそ事なんじゃないの?って。広響はそういうことが殆ど感じられないから、聴いている自分も「この音楽の一秒一秒を感じよう!」そう思わせてくれる。

(以下、追記です)

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※開演前に撮影

 お客さんの入りは75%ぐらいでしょうか。このホール、僕が知る限り、国内のオーケストラの本拠地としては、もっとも音響の悪いホールの一つで、1階席の後15列ほどと2階席の最後方ブロック、いわゆる「B席」に割り当てられている場所は、とても鑑賞に耐えうる音響ではありません。私は2階席のA席の最前列で聴きました。ベストな場所ではありませんが、まあ、ベターだと言える席です。
 編成は14型で配置は高音→低音が並ぶストコフスキー配置。舞台は所狭しと楽器が並びます。

 1曲目のベートーヴェンの献堂式序曲。バロック回帰のようなフーガの連続する華やかな曲ですが、広響の弦の音が太くて、聴きごたえがある。夏に放送された、平和の夕べコンサートでの「コリオラン」序曲も、テレビの音声でもなかなか重厚に聴かせる演奏でした。この音は、もしかすると音が響かないホールを本拠地としているために手に入れた音なのかもしれません。

 2曲目の糀場さんの委嘱作品。原爆投下の苦しみから復興へ、と言ったストーリーを想像し、覚悟を持って臨んだんですが(あまりにネガティブなメッセージが強い作品を聴くと、体調が悪くなるんですよ)、曲の構成が全く違いました。 舞台上手客席側と下手舞台奥の対角線上に配されたチューブラベルをはじめ、木鐘、マラカス、アンヴィル、ボンゴ、ゴング、銅鑼、カウベル、ビブラフォン、鞭、ギロ、ウッドブロック、発砲スチロール、レイン・スティック、トムトムなどの パーカッションが所狭しと並んでいます。

 難渋な不協和音や激しい部分もあるにはありましたが、総じてみると祈る人々と、それを見守るご先祖の霊や精霊たち、といった感じに聞こえます。今に生きる人々を見守る存在の中には、原爆の犠牲者の方々も含まれるのでしょうが、音楽全体からある種の『許し』がある感じがするのです。
 印象に残ったのは、フルートを頭上に掲げてバルブだけを操作して、かすかに「パタパタパタ」という音。ホールの中に精霊が舞い込んできたかのようです。中間部のコントラバスのオスティナートから徐々に盛り上がって、さあいよいよ、というところで鳴り響く、オケ奏者全員が持って鳴らした風鈴とお鈴(?)のトゥッティ。本当に美しい瞬間でした。

 後半の諧謔的に表現されたショスタコーヴィチの作品とは対をなすけれど、楽曲として人々に問いかける力のある作品、という面では共通すると思います。もう一度聴きたい。そう思わせる曲です。

 休憩後、メインはショスタコーヴィチの10番です。自分にとっては、ショスタコの交響曲の中で初めて耳に馴染んだ曲。2度上昇の3つの音と3度上昇の3つの音が組み合わさった、不気味な動機が楽章を貫きます。中間部の盛り上がるところ。結構速いテンポで突き進みかと思いきや、スネアが出て来る場面で少しテンポを落としたのは、この劣悪音響のホールで響きの濁りを防ぐためだったのでしょうか。各楽器パートの音がクリアに聴こえて、「このホールでここまで出来るのか!」と驚きました。この曲でも弦楽器の厚みは健在で金管やパーカッションの巨大音にかき消されることが無いのは立派。木管の上手さはやはり広響の売りと感じさせる。中間部での徐々に徐々に遠くから近くへ迫ってくるような金管パートの盛り上がりも見事。
 高関さんは広響の元音楽監督ということですが、その当時の楽団員の半分以上は入れ替わっていることでしょう。年に1度振るかどうかの回数であっても、充 分に掌握されていたのには驚きます。その楽団員との信頼関係が最も出たのが第2楽章。
 この第二楽章のテンポの速いこと速いこと、ドウダメル&シモン・ボリバル・オーケストラ並みの早さ。しかしただ速いだけじゃなく、本心を偽装しつづけた作曲者の屈折したエネルギーの放射を感じさせた。誰も飛び出さず、誰も落ちず遅れずの完璧なアンサンブルで一気に駆け抜けた。思わずひざ元でこっそり拍手のゼスチャーをステージに贈ってしまいます。

 激しすぎる第2楽章が終わって、1分程度時間を取ってクールダウンしてから始まった、美しすぎる第三楽章。この曲の生でも随一の美しいフレーズ、当日のプログラムによると、ホルン信号のフレーズはショスタコーヴィチの秘書をしていたエリミーラ・ナジーロヴァという女性のイニシャルを巧妙に置き換えたものだそうです。そのフレーズとDESCHのフレーズが対話をするように進んでいきます。しかし、精神的にも不自由で追い込まれた環境だった作曲者が、このメロディーに託したのは、単なる色恋の話だけではないように感じます。
 第4楽章、この楽章の前半は木管の見せ場が多い。名手ぞろいの広響の木管を堪能。オーボエの悲しく切ない音色に涙が出そうになる。楽章中間から雰囲気が一転しますが、ここも『雪解け』を感じさせるものの、途中からまた雲行きが怪しくなる。フィナーレも作曲者自身が鼓舞するように終わる。高関さんのタクトは、非常にパースペクティヴで、この第4楽章ではだだっ広い草原の中で遠くの情景をとらえているような景色から、だんだん近づいてきて、最後は目の前に巨大な音楽が躍動感をもって立ち現れている。すべての楽章にわたって、細部にまで神経が行き届いているため、ショスタコーヴィチの尋常ではない不気味さや諧謔性が、自分の肌をヌルリと触っていくようなリアリティがある。
 また、指揮者が奏者を信頼して各パート間のコミニュケーションを阻害せず、促進していくので音楽がまさに生き物になっている。全曲を聴いて、ポジティブな気持ちになるような曲ではないのですが、職人が力を合わせて巨大なモザイク画を作り上げる様子を見上げた後のような、心の中が掃除さされような、なんだかすっきりした気分でホールを後にしました。実演に接してこういう風に感じるのは、ショスタコーヴィチの音楽には、突き詰めていくと『美』があるのだろうな、そんな発見がありました。
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「ところで、きょう指揮したのは?」秋山和慶回顧録 [読書(音楽本)]

 指揮者生活50周年を迎えられた秋山和慶さんの回顧録です。


 誰がどう読んでも波瀾万丈の秋山さんの半生、それを秋山さんらしい上品で優しい語り口で、淡々としながらも生き生きと語っておられます。あまりに淡々と語っておられるので、著者の冨沢さんがのフォローの文章を挟んでおられるのが印象的。
 秋山さんの古希を超えて尚、若手指揮者も真っ青になる様な鋭いタクトとリズム感。そしてそして、膨大なレパートリー。
 注目したのは、特に膨大なレパートリーを生み出す原因となったのは、常に経営危機状態にあった東京交響楽団との関わりの副産物だった、ということ。

 薄氷を踏むようなギリギリの経営をしていた東響は、運営母体のしっかりしている楽団の連中(N響と読売日響、都響のことでしょう)から、ゴミあさりオケ=なんでも仕事を引き受けて、馬車馬のように演奏会をこなしてギャラを稼ぐ=と侮蔑をもって呼ばれていたとのこと(ひどい言われようやなあ・・)。事実、スポンサーの要望でどんなプログラムでもこなした。
 依頼があったら何でも引き受けているうちに『私のレパートリーは広がり、楽譜を読む力が付いた』というのが真実のようなのです。
 これはちょっと戦慄が走る様なエピソードです。
 そして絶妙のリズム感。先日のシベリウスの3番・5番の演奏でもこの強烈なシンコペーションのリズムに、「これはセンスあふれる若手指揮者でも敵わないのではないか?」と思った、その抜群のリズム感は、バンクーヴァー時代にバンクーヴァー響のポップスシリーズで会得していったのではないかと思います。共演したアーティストはデューク・エリントン、デイヴ・ブルーベック、スタン・ゲッツ、ハーヴィー・マンら錚々たるメンバー。耳の肥えたカナダの聴衆を相手に彼らと共演し、絶賛を博した。この本場仕込みの経験が秋山さんのリズム感を形作っている。
 秋山さんは現在でもバンクーヴァーに居を構え、バンクーヴァー響との関係も継続していて、定期演奏会にも毎年招聘されているようです。
 
 他にも、今では押しも押されぬマエストロとなった方々との青春時代の回想も魅力的です。飯守泰次郎さんとは、本当にずっと一緒に学んでいらっしゃったようですね。
 この本の帯には「秋山さんは、斉藤先生の一番理想的な弟子」という言葉を寄せている小澤さんとのエピソードも語られています。
 正直、外野で観客として見ている者からすると、例えば、サイトウ・キネン・フェスティバルの共同発起人(でしたっけ?)的なお立場にありながら、今やその音楽祭はセイジ・オザワの名を冠した音楽祭に変貌してしまっていることに釈然としない思いを持ってしまうのですが、そういった記載はもちろん一切なく、小澤さんについては常に先を行って道を作った先輩、同志としての惜しみない敬意しか文面からは伝わってきません。
 全編を貫いていて、秋山さんの音楽や立ち居振る舞いを貫いているのは、斉藤秀夫の教え

 『音楽で名声を得ようとしてはならない』

 この言葉が、秋山さんの生きざまのすべてだと感じます。
 表題の「ところで、きょう指揮したのは?」というのは、秋山さんの理想のコンサートを表しているとのこと。
 あるオーケストラのコンサートに行って、素晴らしい演奏を聴いたお客さんが、あれが良かったここが良かった、とアフターコンサートの会話を楽しむ。
 で、「ところで、きょう指揮したのは?」「誰だっけ?」
 指揮者の存在というのはこういう感じで丁度良い、ということのようです。音楽そのもの、そして演奏者が称えられるコンサート。いかにも秋山さんらしいと思います。

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これは本物です! [コンサート感想]

 先日、とあるコンサートに行きました。
 岡山フィルの伴奏で、ベートーヴェンとブラームスのヴァイオリン協奏曲というなかなか意欲的なプログラムだったのですが、ソリストの演奏は、正直、プロの演奏家のコンサートとして3000円の入場料を取る内容ではありませんでした。
 ミスも多かったのですが、ソリストがオーケストラの音を充分に聞いていない(聴く余裕が無い?)様子で、オケに合わせられない。オケと対話する場面でスッと入れない、1フレーズ丸々抜け落ちる、というのはコンチェルト演奏家としての能力に疑問を感じざるを得ませんでした。指導者としては大変な実績がある方ですし、両曲は素人が聴いて感じるよりも、はるかに難しい曲。その挑戦する精神は称賛されるべきですが、であればクローズド(お弟子さんや音楽仲間・知人だけを呼んだ)のコンサートにすべきだったのではないかなあ、と思います。
 一方で、入場料を払い損のコンサートだったかというと、そういうわけではなかったです。
 そもそも、聴きに行った目的の一つは、在東京オケの助っ人奏者やシェレンベルガーがタクトを取っていない状態の岡山フィルの演奏を久く聴いていなかったので、『素』の岡フィルの実力を知る意味で足を運んだ部分もあった。
 オーケストラの演奏は、僕の想像以上に素晴らしかった。近藤浩子さんのコンミスに、その横のフォアシュピーラーには上月さんが率いる弦楽器部隊の豊潤な響き。シェレンベルガーよりもカドが取れた山上さんのタクトに合わせて、なんとも心が温かくなるサウンドにほれぼれしました。
 木管・金管も含めて全体のハーモニーが綺麗で、オーボエの沼さんあたりは、定期演奏会でも充分に首席のポジションで吹けるのにな(去年の1月定期でのコーラングレも素晴らしかったし!)、と思いました。
 岡山フィルの「今」を知る意味では、僕にとっては聴きに行った意味のあるコンサート。この実力派もう本物でしょう!
 この8型の在東京オケからの助っ人も無い編成で、もう少し小さなホール(市民文化ホールや就実学園のなでしこホール)でシェレンベルガーの指揮でモーツアルトやハイドンのシリーズを聴いてみたいなあと思います。
 

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