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岡山芸術交流 Okayama Art Summit 2016 行ってきました! [展覧会・ミュージアム]

岡山芸術交流 Okayama Art Summit 2016
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 一瞬、思考停止。次に瞠目、最後には愉快な笑いがこみ上げ、見慣れた街のなかに日常の「裂け目」が見える。そんな感動を感じました。
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 10月8日から11月27日まで開催されている「岡山芸術交流 Okayama Art Summit 2016」、「美術手帖」誌の言葉を借りれば、『かなりハード・コア』な展示だそうです。現代アートにうとい自分にとっては、何がハード・コアなのか?言葉には出来ないですが、瀬戸内国際芸術祭のフレンドリーな雰囲気の展示に比べると、前衛的なものが多いというのは理解できます。

 会場巡りをした個々の展示の感想は、また改めて書き起こそう思いますが、先週の土曜日に有料の展示の半分と、チケット不要のパブリック空間に置かれたインスタレーションに接してみて、強く感じたことがあるので、とりあえずエントリーしておきます。
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 地元新聞社の記事でも書かれたとおり、この岡山で現代芸術祭を開催する意味は、「非日常」であり「外へ開かれた窓」であり、アートを通じた街の魅力の再発見、であるのだろう。

 しかし、僕が感じたのは、子供の頃には確かに持っていた感覚・・・空想と日常との境界線の曖昧さ、そして日常に潜む「破れ」の存在、それを大人になって思い起こさせてくれたことが重要です。
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 日常を過ごしている街に、突如現れた「訳のわからないもの」に突如侵略される感覚、一瞬、頭の思考がストップする感覚は、想像以上に面白いものでした。
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 大人の感覚では、日常は連続的に存在しているようにしか感じられないが、子供、特に小学校5年生ぐらいまでの子供は、日常の破れ、とでもいう感覚を持っている。「あの山(海)の向こうはどうなっているのか?」「お父さん(お母さん)は、本当に僕のお父さん(お母さん)なんだろうか」。そういった日常を支えている世界に「破れ」があり、その「破れ」に対する畏れも持っている。この感覚は大人になれば失われ、やがて忘れ去られて行ってしまう。
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 一方で、子供の頃に刻み込まれた心象風景は大人になっても強く残っているものなんです。僕は小学校時代の「ポートピア81」が未だに忘れられない。思えばあの博覧会のパビリオンは、巨大なコーヒーカップや、地面に突き刺さったダイエーの巨大マーク、巨大な地球儀など、どれも現代アート的な造形だった。そこへ向かう、無人で走る「未来の乗り物(ポートライナー)」を含め、心象風景として強烈に刻み込まれている。

 後楽園近くの空き地に突如墜落したUFOのような物体や、岡山シンフォニーホールの向かいの、普段は地味な換気塔やビルの壁面が全く違う物体に変貌している。日常見てきたものが全く違う姿を現しているこの風景は、大人になり「日常の破れ」が閉じた後も、自分たちの日常が違う世界と繋がっている感覚や、強く刻み込まれた心象風景が、視野を広げ感性や審美眼を磨くことの意味を教えてくれたように思う。
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 またアートの「代償行為」としての側面も重要かも知れない。社会に対して怒りを感じても、アートが負の感情を慰撫してくれる。「ここまでやる!?」「何をやってもいいんんだ!」という感覚になれ、見る者の心までも自由になる。

 こんな現代芸術祭が、今の岡山で開催されたというのは、ある意味、奇跡といえる。岡山は広島や福岡のように、地方ブロックの雄で周囲の県から続々と人が集まってくるような大都市ではない。その一方で岡山は、大きな経済規模を有しており、岡山市と倉敷市などと合わせると、実は人口120万人の都市圏を形成している。これだけの経済規模を有しているがゆえに、岡山で生まれ育った多くの人が、岡山で学び、就職し、子供を設け、岡山で老いて死んでゆく。
 つまりは岡山から一歩も出なくても人生を送れてしまう。今回のイベントの運営に携わった岡山市の職員の中の大多数もそうした人生の軌道の上にいるのではないだろうか。経済規模でいえば、他の県の人が入り込んでくるほどの巨大な商業規模・経済規模を有してはいないから、転入も少ない。

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 そういう環境の岡山という街は、安定した社会を築いてきた。大阪や神戸のような貧富の格差が少ない(高級住宅街とダウンタウンが強いコントラストを描く、ということもない)、住みやすい街だとは思う。一方で外から入っている刺激が少ないことによって、社会の停滞を招く危険性を秘めている。
 僕も「よそ者」として岡山に住み・働いて行く中で、この街の持つ「異分子」に対する脆弱性や、排他性について実感する事件は何度も経験した。それに加えて、芸術・文化面(特にメイン・カルチャーにおいて)での停滞ははっきりと感じられてきたのが90年代~ゼロ年代の岡山だったと思う。

 このイベントの主催を牽引した実業家の石川さんの本当の狙いは、現代アートを通じて、岡山という街への、ある種のカンフル剤を処方したということなのだと思う、石川氏のこれまでの行動原理から考えれば、大いにあり得る。

 2010年代に入って、音楽界ではハンスイェルク・シェレンベルガーがオーケストラ文化の停滞を打破しつつあるし、そこへ来て、この岡山芸術交流の開催。公金が投入されている以上、事後の検証は欠かせない作業になると思いますが、90年代からの芸術文化面での停滞した状況、そして20年後30年後の岡山の社会へつながるインパクト、そういった視点での評価が必要だと思う。

「地方発アートの❛台風の目❜誕生! 『岡山芸術交流2016』」
                        -プレミアム・ジャパン

リアム・ギリックがディレクション 岡山芸術交流開幕レポート!
                        ―美術手帖

芸術祭とは言いません。『岡山芸術交流』が独自路線と行く理由
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『岡山芸術交流 2016』がスタート!
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手加減なしの現代アートと戯れる 岡山芸術交流2016に注目
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伊閣蝶

何度も読み返し、その都度考えさせられました。
「日常の破れ」
確かに子供の頃はそうした感覚を持っていながら大人になるにつれて「常識的な判断」で次第に失われていく。
それでも、私は今でも上り坂の頂上を目指していくのが大好きで、そこからの眺めをわかっているはずなのに、そこに向けて登っていくわくわくした気持ちをいつも感じます。
もしかしたら、そこに想像もつかない世界が広がっているのではないかと期待する気持ちが残っているのかもしれません。
by 伊閣蝶 (2016-10-20 12:46) 

ヒロノミンV

>伊閣蝶さん
 認知科学の分野では、ピアジェという大家が11歳ごろから「形式的操作期」・・・つまり自分が見たり触ったりしたことが無い物でも、経験や知識を動員して「推論」することが出来るようになる時期が始まる、と定義しています。恐らく、この時期に「日常の破れ」が徐々に消失していくのだろうと思います。
 音楽を趣味にしていると、例えばベートーヴェンやマーラーには、こうした日常の向こう側にあるものが感じ取れた人なのではないか?と感じることがあります。そうした感触は現代美術にたいしても感じることが出来ました。

>私は今でも上り坂の頂上を目指していくのが大好きで、そこからの眺めをわかっているはずなのに、そこに向けて登っていくわくわくした気持ちをいつも感じます。

 素敵です!本当にそういう心を持ちたいと、いつも思ってるんでが・・・
 コンサートホールの中で、日常とは違う世界を体験することがあるのですが、ホールから一歩出て、「ブログにどうやって感想を書こうか」などと写真(?)が出ると、途端に消えてしまいます。芸術家頼みではなく、伊閣蝶さんのように、自ら足を動かさないとだめですね。

by ヒロノミンV (2016-10-20 23:21) 

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