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広島交響楽団第357回定期演奏会 指揮:高関健 [コンサート感想]

また広響が忘れられない演奏をやってくれました。

広島交響楽団第357回定期演奏会《私たちは忘れない》

ベートーヴェン:付随音楽「献堂式」ハ長調
糀場富美子:摂氏4000度からの未来
ショスタコーヴィチ:交響曲第10番ホ短調

指揮:高関健

2016年2月19日(金) 広島文化学園HBGホール

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 ショスタコーヴィチは高関さんらしく、手先足先まで神経が行き届いたタクトに、広響も一体となった演奏で答えていた。今の広響は聴いていて本当に気持ちがいいんです。特に好きなところは、ヨーロッパの楽団のように各パートが有機的に結びついて泉のように音楽が湧いてくるような一体感のある演奏。
 それを支えているのは、各パートのお互いの音に関心を払い触発して生み出す豊かな営みを感じることです。ヴィオラの安保さんやチェロのマーティンさんあたりをみていると、自分のパートの出番がない場面でも、常にテンポを感じ音楽を感じているのが分かります。お互いが出す音楽に対して決して無関心にならず、寄り添い触発し合う音の中での会話量が本当に豊富なんだろうなあっていうのが見ていてすごく伝わってくる。
 これって、在東京の実力の高いオーケストラを聴いていても、時々不満を感じることがあるんです。おのれのパートは完ぺきかもしれないが、出番が無いところでは、まるでよそ事なんじゃないの?って。広響はそういうことが殆ど感じられないから、聴いている自分も「この音楽の一秒一秒を感じよう!」そう思わせてくれる。

(以下、追記です)

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※開演前に撮影

 お客さんの入りは75%ぐらいでしょうか。このホール、僕が知る限り、国内のオーケストラの本拠地としては、もっとも音響の悪いホールの一つで、1階席の後15列ほどと2階席の最後方ブロック、いわゆる「B席」に割り当てられている場所は、とても鑑賞に耐えうる音響ではありません。私は2階席のA席の最前列で聴きました。ベストな場所ではありませんが、まあ、ベターだと言える席です。
 編成は14型で配置は高音→低音が並ぶストコフスキー配置。舞台は所狭しと楽器が並びます。

 1曲目のベートーヴェンの献堂式序曲。バロック回帰のようなフーガの連続する華やかな曲ですが、広響の弦の音が太くて、聴きごたえがある。夏に放送された、平和の夕べコンサートでの「コリオラン」序曲も、テレビの音声でもなかなか重厚に聴かせる演奏でした。この音は、もしかすると音が響かないホールを本拠地としているために手に入れた音なのかもしれません。

 2曲目の糀場さんの委嘱作品。原爆投下の苦しみから復興へ、と言ったストーリーを想像し、覚悟を持って臨んだんですが(あまりにネガティブなメッセージが強い作品を聴くと、体調が悪くなるんですよ)、曲の構成が全く違いました。 舞台上手客席側と下手舞台奥の対角線上に配されたチューブラベルをはじめ、木鐘、マラカス、アンヴィル、ボンゴ、ゴング、銅鑼、カウベル、ビブラフォン、鞭、ギロ、ウッドブロック、発砲スチロール、レイン・スティック、トムトムなどの パーカッションが所狭しと並んでいます。

 難渋な不協和音や激しい部分もあるにはありましたが、総じてみると祈る人々と、それを見守るご先祖の霊や精霊たち、といった感じに聞こえます。今に生きる人々を見守る存在の中には、原爆の犠牲者の方々も含まれるのでしょうが、音楽全体からある種の『許し』がある感じがするのです。
 印象に残ったのは、フルートを頭上に掲げてバルブだけを操作して、かすかに「パタパタパタ」という音。ホールの中に精霊が舞い込んできたかのようです。中間部のコントラバスのオスティナートから徐々に盛り上がって、さあいよいよ、というところで鳴り響く、オケ奏者全員が持って鳴らした風鈴とお鈴(?)のトゥッティ。本当に美しい瞬間でした。

 後半の諧謔的に表現されたショスタコーヴィチの作品とは対をなすけれど、楽曲として人々に問いかける力のある作品、という面では共通すると思います。もう一度聴きたい。そう思わせる曲です。

 休憩後、メインはショスタコーヴィチの10番です。自分にとっては、ショスタコの交響曲の中で初めて耳に馴染んだ曲。2度上昇の3つの音と3度上昇の3つの音が組み合わさった、不気味な動機が楽章を貫きます。中間部の盛り上がるところ。結構速いテンポで突き進みかと思いきや、スネアが出て来る場面で少しテンポを落としたのは、この劣悪音響のホールで響きの濁りを防ぐためだったのでしょうか。各楽器パートの音がクリアに聴こえて、「このホールでここまで出来るのか!」と驚きました。この曲でも弦楽器の厚みは健在で金管やパーカッションの巨大音にかき消されることが無いのは立派。木管の上手さはやはり広響の売りと感じさせる。中間部での徐々に徐々に遠くから近くへ迫ってくるような金管パートの盛り上がりも見事。
 高関さんは広響の元音楽監督ということですが、その当時の楽団員の半分以上は入れ替わっていることでしょう。年に1度振るかどうかの回数であっても、充 分に掌握されていたのには驚きます。その楽団員との信頼関係が最も出たのが第2楽章。
 この第二楽章のテンポの速いこと速いこと、ドウダメル&シモン・ボリバル・オーケストラ並みの早さ。しかしただ速いだけじゃなく、本心を偽装しつづけた作曲者の屈折したエネルギーの放射を感じさせた。誰も飛び出さず、誰も落ちず遅れずの完璧なアンサンブルで一気に駆け抜けた。思わずひざ元でこっそり拍手のゼスチャーをステージに贈ってしまいます。

 激しすぎる第2楽章が終わって、1分程度時間を取ってクールダウンしてから始まった、美しすぎる第三楽章。この曲の生でも随一の美しいフレーズ、当日のプログラムによると、ホルン信号のフレーズはショスタコーヴィチの秘書をしていたエリミーラ・ナジーロヴァという女性のイニシャルを巧妙に置き換えたものだそうです。そのフレーズとDESCHのフレーズが対話をするように進んでいきます。しかし、精神的にも不自由で追い込まれた環境だった作曲者が、このメロディーに託したのは、単なる色恋の話だけではないように感じます。
 第4楽章、この楽章の前半は木管の見せ場が多い。名手ぞろいの広響の木管を堪能。オーボエの悲しく切ない音色に涙が出そうになる。楽章中間から雰囲気が一転しますが、ここも『雪解け』を感じさせるものの、途中からまた雲行きが怪しくなる。フィナーレも作曲者自身が鼓舞するように終わる。高関さんのタクトは、非常にパースペクティヴで、この第4楽章ではだだっ広い草原の中で遠くの情景をとらえているような景色から、だんだん近づいてきて、最後は目の前に巨大な音楽が躍動感をもって立ち現れている。すべての楽章にわたって、細部にまで神経が行き届いているため、ショスタコーヴィチの尋常ではない不気味さや諧謔性が、自分の肌をヌルリと触っていくようなリアリティがある。
 また、指揮者が奏者を信頼して各パート間のコミニュケーションを阻害せず、促進していくので音楽がまさに生き物になっている。全曲を聴いて、ポジティブな気持ちになるような曲ではないのですが、職人が力を合わせて巨大なモザイク画を作り上げる様子を見上げた後のような、心の中が掃除さされような、なんだかすっきりした気分でホールを後にしました。実演に接してこういう風に感じるのは、ショスタコーヴィチの音楽には、突き詰めていくと『美』があるのだろうな、そんな発見がありました。
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バルビ

 広響の公演がご盛会でおめでとうございます。高関さん+広響のショスタコーヴィチ10番とくれば、熱演が目に見えるようですよ。
 高関さんが我が群響を去られた後、一度しか客演してくれません。群響の名誉指揮者である高関さんです。来県の熱望しています。また彼の指揮で、ショスタコーヴィチやマーラー、バルトークなどを聴きたいです。
by バルビ (2016-02-21 09:59) 

ヒロノミンV

>バルビさん
 コメントありがとうございます。
 本当にたいへんな熱演でした。細部にまで作り込まれた演奏でしたが、楽団員との信頼関係も良好の様子で、オーケストラから泉のように湧いてくる音楽を堪能しました。
 高関さんは、広響の音楽監督でもありましたが、広響の歴史で財政的に最も苦しい時期に、若干30歳で音楽監督を引き受け、楽団の立て直しを行ったそうです。
 群響への客演が少ないのですね。これは意外です。群響と言えば、西日本の離れた街に住んでいる私の印象では、まだまだ高関さんのイメージが残っています。ここまで手腕の高いマエストロですから、京響といいシティ・フィルといい、引っ張りだこですね。
by ヒロノミンV (2016-02-23 19:08) 

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