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岡山大学鹿田キャンパスの「Jホール」での室内楽の新シリーズ企画 [コンサート情報]

 岡山大学の鹿田キャンパスに、5年前に突如現れた最先端の現代建築による多目的ホールのJホール(正式名称は、寄付者の福武純子氏の名前を取って、『Junko Fukutake Hall』)で、竣工直後から岡山シンフォニーホールが主催するレインボーコンサートが月1回のペースで開催されています。
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 シェレンベルガーによるオーボエ演奏は、レインボーコンサートの毎年の恒例行事となり、岡山フィルの団員による室内楽演奏や、新イタリア合奏団、デジュ・ラーンキ、グリミネッリが登場するなど、世界トップレベルのアーティストが登場する、そんじょそこらの地方の公共ホールを軽く凌駕するプログラムが組まれ、500円~2000円という信じられない価格で聴くことが出来ます。
 ただ、開催されるのが平日の14時から、というのが唯一の突っ込みどころではありますが・・・幸い、今の私の仕事がシフト勤務なので、年に3~4回は聴くことが出来ています。
 今回のエントリーは、このレインボーコンサートのことではなくて、3月ごろから始まったらしい・・・新シリーズのコンサート(シリーズ、といっていいのかしらん)。
 「音楽療法研究会」、という、素人の聴衆を寄せ付けない(笑)ネーミングのコンサートですが、4月に「アンサンブル・フィノ」という、岡山フィルの団員さんを中心としたアンサンブルのコンサートを開催、そして5月30日には、なんと、ウィーン・フィル首席フルート奏者のカール=ハインツ・シュッツらが登場します。
 「研究会」という名前ですが、フツーに岡山シンフォニーホールでチケット売っています。しかも2500円です。
 この豪華新シリーズ、今後も続いていくのだとしたら凄いですな。月2回ペースでの豪華メンバーによるコンサートが聴ける・・・、大学キャンパスの中の多目的ホールとしての枠を超えております。冗談抜きで、中四国地方のあらゆるホールの中でも最も充実したラインナップだと思いますよ。
 レインボーコンサートは、岡山大学と連携協定を結んだシンフォニーホールが主催しているコンサートですが、この「音楽療法研究会」のコンサートは、大学と大学の同窓会・医師会が主導で開催しているらしく、シンフォニーホールがそのノウハウやアーティストの招聘などで協力しているような感じみたいですね。
 地方のクラシック・コンサートの客層は、昔から「師業」と「士業」の方が多いと言われてきました。前者は医師・教師(大学教授や学校の教員)、後者は弁護士や司法書士などの資格士族。
 とりわけ岡山では、プロ・アマ問わず、医師の方が多いように思います。岡山のクラシック音楽界の屋台骨のひとつは医者が支えていると言って過言ではないでしょう。
 その医師の総本山でのホールを上手くマーケティングした岡山シンフォニーホールもうまくやったと思いますし、「セレンデピティを生み出す場(寄付者の福武純子さんのことば)」を提供した寄付者の方と、それを維持している岡山大学を、我が母校ながら誇らしく思います(鹿田と津島は別の大学やー、なんて言わないでー)。

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国内オーケストラ業界と岡山フィル発展への研究(その6:岡山を文化デフレ社会から、文化芸術資本が循環する社会へ) [岡山フィル]

 これまでのエントリーは、できるだけ先入観を排して、データを読み解くことを重視してきました。今回の記事は、大部分が筆者の主観によるものであることを、はじめに断っておきます。
 今回からいよいよオーケストラは育むための、岡山という街の『土壌』について考えていきたいと思います。
地方都市でオーケストラが生き残っていくためには、色々な政策的テクニック論があると思いますが、このシリーズを打っていて、「これはどうしても述べておきたい」と思うに至ったことを今回は触れていこうと思っています。

 これまでのエントリーで、オーケストラが「独立採算」で存立可能なのは莫大な「富の集積」がある東京圏のみ。地方においてオーケストラを維持するためには多額の「安定財源」が必要で、その多くが自治体による公的資金、それにプラスして地元財界を中心とした民間の資金援助が必須であることを述べた。つまりはその街の「総合力」が試されるわけで、岡山フィルの今後を考えるということは、その本拠を置く岡山という街そのものについて考えることにも繋がっていく。

 今回のエントリーのキーワードは、「文化資本デフレ社会」からの脱却と「文化・芸術資本が循環する社会」へ。


芸術家が集まらない街:岡山


 岡山市の文化芸術振興ビジョンによると、市の全就業者数に占める芸術家の割合は、全国平均の0.63%を下回る0.53%で、全国平均を下回り政令指定都市としてはかなりさみしい数字(下位グループに位置)であり、文化芸術のマンパワーが決定的に不足している状況が見て取れる。

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「岡山市文化振興ヴィジョン H29~33」より
 岡山で芸術家の割合が低迷しているのはなぜか?芸術作品に対する需要の不足、芸術家を支えるマネジメントや人的ネットワークの不足など、様々な問題点が指摘されているが、私がこの街で四半世紀近く生活してきたうえで「これでは芸術家やクリエイターが育たない」と感じるはっきりとした原因があると思っている。それは芸術家やクリエイターの仕事に対する正当な対価が払われる文化・土壌が少ない、あるいはそうした意識が弱い、『文化資本デフレ社会』であるということだ。

文化資本デフレ社会:岡山の問題点

 この『文化資本デフレ社会』は、岡山に限ったことではなく、地方都市の大部分が抱えている現象だと思う。
 岡山を含む多くの地方都市と、大都市・文化都市と言われる街との大きな違いは、人の手が入ったクオリティの高い仕事への対価に対する態度の違いである。大都市・文化都市には値段が高いものに対して、どれだけの技術や優れたデザインが盛り込まれているか?それを推し量る審美眼を持った人が多く、本当にいいものなら少々高くても売れていく。
 しかし岡山も含めた地方の中小都市の現状を見ると、例えば「パンフレット作成」という仕事一つ取ってみても、すぐれた技術力・企画力やデザイン力がある会社よりも、「安かろう悪かろう」の会社の方が売り上げを伸ばす傾向が強い。デザインの差が圧倒的でも、両者に価格差があれば、たとえそれが技術力・クオリティの高さに起因する価格差であるとしても、かなりの割合で「安かろう悪かろう」の方が岡山では選ばれてしまう。
 ただし、例外がある、それは「東京で話題になっている・流行っている」モノ・サービスや、東京から派遣されたプロモーターが手掛けるイベントに関しては、少々高くても売れることだ。地元のクリエイター達が渾身に作り込んだものが売れず、地元経済がデフレ化する一方で、東京資本のモノやサービスは活発な取引がある。結果、売上金はどんどん東京へ流出する。

文化デフレ社会=悪貨が良貨を駆逐する社会の犯人

 岡山が本気で「芸術・文化都市」を目指し、「岡山」のブランディングを向上しようと思っているのなら(岡山の「ブランド向上のために」、文化・芸術に力を入れる、という考え方は飛躍があるのだが、それにつてはのちほど・・・)、この「悪貨が良貨を駆逐する」ような土壌・文化については議論されるべきだろうと思う。

 しかし文化資本デフレを助長する、「悪貨が良貨を駆逐する」ような傾向は岡山市や岡山県など公共セクターが発注する仕事にも顕著に見られる。見られるどころか、これらの地元の公共セクターこそが競って「価格」重視で買い叩き、「文化資本デフレ社会」へ邁進しているように思えるのである。
 単価が数%高いだけで、優れたデザインや企画が生き残れず、安かろう悪かろうが生き残っていくこの街で、クリエイターたちが生活していくのは至難の業だと思う。

 そして、もっと深刻なのは、公共セクターが脆弱な財政基盤を理由に、芸術や文化への予算を「ケチり」、芸術家やクリエイター達への報酬や対価を買い叩いていることだ。筆者は実際にそうした現場を多く目にしてきた。彼らの度し難いところは、そうした芸術・文化に対する「値切り」行為を恥ずかしげもなく堂々と「成果」として誇ってすらいるように見えることだ。

 そうした公共セクターだが、東京資本の文化マネジメント組織や代理店に対しては、あっさりと財布の口を開いてしまう。田舎者根性が染みついている(失礼!)彼らは、東京の洗練された業界人たちに手玉に取るように操られ、莫大な資金をかっさらわれてしまう。私は岡山に住んで長いが、メンタリティの奥底には関西人としての東京への反骨精神があるので、「東京がなんぼのもんじゃ」とルサンチマンの塊のように奮闘しようと息巻いているのであるが(こういうメンタリティもどうかと思うが・・・)、『東京では話題になってるんですよ』という殺し文句に弱い公共セクターのゆがんだメンタリティを見ると、こちらまで力が抜けてしまうのだ。

そのモノが持つ価値は、「東京で話題になっていること」ではない

 岡山という街にクリエイター・芸術家が集まり、彼らの創作活動や演奏活動が街の活力となっていくためには、まずは「技術と芸の粋を集めた作品・演奏」に対して、きちんと価値を評価し、身銭を切ってそれらを手に入れる、体験する、という文化が育つことが必要不可欠だと思う。
 一人一人が審美眼を磨いていくこと無しに、「東京では話題になっているから」ではなく、岡山の土壌から良質なモノが続々と生まれ、芸術家が集まる街になることは決してないだろうと思う。

 岡山フィルについて言うと、例えば、スクールコンサートのギャランティとして県や市から出ているお金は正当な価格なのか?現在でも岡山フィルの演奏技術は向上しているし、首席奏者が整備されれば演奏水準も上がる。当然、出演料も値上げされるべきだろう。しかし、市や県は演奏報酬の値上げにはそうそうは応じまい。必ず「同じ曲で同じ時間を演奏しているのに、なぜ値段を上げる必要があるのですか?」、そういう発想に支配される。東京のプロモーターからの「東京ではこれぐらいの価値が認められているんです」という殺し文句とともに高額の提示をされても、鵜呑みにしてしまうのにも関わらず、である。そういった公共セクターの判断一つ一つが積み重なり、それが民間にも波及して、岡山にクリエイター・芸術家が集まらない街になっていく、という悪循環に陥っているのではないか?

 話は逸れるが、京都に「門掃き」という習慣がある。早朝に自分の家や店の前の道を掃除する習慣のことだが、この門掃きに使われる箒を専門に売っている店が存在する。1本1万円近い箒がコンスタントに売れていくそうだ。京都の人は本心を隠して「ホームセンターで売ってる安物の箒なんか、恥ずかしくて門掃きに使われへんわ」と理由を述べるのだが、本当のところは、やはり値段の高い箒は長持ちで掃き心地もが良く、塵が飛び跳ねにくいなど、機能面でも優れている。朝一番に行う仕事を気持ちよく行うために「1万円は払うても惜しない」、それが京都の人々の本心なのだろうと思う。
 京都には、こうした専門店が何百年と続いている。扇子専門店から月見の時期だけに使う三方の専門店、茶筒の専門店なんて言うのもある。京都の骨董屋の目利きも日本一だと聞く。モノの価値を見る目を大事にし、ややもすればそうした素養の無い人は軽蔑さえ受けてしまう。そんな京都は、文化資本デフレとは無縁の街に見える。 
  

『「岡山都市ブランド」を育てるために、オーケストラを育てる、という発想への違和感

 岡山市の様々なビジョンにかかれている。「岡山の都市ブランド向上のために」オーケストラを育てるという発想
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「岡山市文化振興ヴィジョン H29~33版」より
 以前には無い発想であったから、私は一定の評価はをしたのだが、よくよく考えてみるとこの発想には、どうしても違和感が付きまとう。その違和感は「異性にモテたいから流行の服を買う」という発想に通じる違和感。その間に数段階飛ばしている大事なものがあるのでは?都市ブランドの向上って、そんなに簡単なもの?
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「岡山市文化振興ヴィジョン H29~33版」より
 この図を見てみると、違和感の正体がはっきりする。岡山市は文化芸術が「岡山が人を惹きつける 多様な価値を提供」し、すぐに「都市のイメージアップ」につながると考えているようだ。そんなに簡単なわけはない。    
 文化・芸術が都市のイメージアプに貢献するためには、文化・芸術に関する行政・市民の地道な努力と、大胆な「投資」があって、(シェレンベルガーのような)プロのアーティストを呼び込み、例えば音楽では、岡山フィルが全国でも評価されるような楽団になり、しかし、そのためには街の人々が一流の芸術へアクセスし、人々もそれに対して対価を払う土壌ができ、文化資本が循環する社会になって、「新たな価値を創造」し「多様な芸術家などの人材が集ま」って、その結果、もしかしたら都市のイメージがアップする、かもしれない。実際には、途方もないプロセスを間に挟んでこそ起こることだろう。
 この表からは、単に「岡山フィル」というオーケストラが、現状のままでも都市のイメージアップにつながっていくような短絡的な発想をしているように感じる。現在、岡山という街が陥っている「文化資本デフレ社会」に対する現状認識すらないのだ。
 岡山という街がオーケストラを抱えることによって得られる、真の意味とは何なのか?という問いとしては、違和感を感じざるをえないのです。

 オーケストラは、お金がかかる。楽器演奏と音楽表現に文字通り人生を賭けた50名もの職人集団である。お金がかかるのは当然。岡山が「文化資本デフレ社会」から脱却するために、岡山の人々の価値観を転換し、最高レベルの技と芸術性に対し、正当な対価を払うという豊かな文化都市へ舵を切りなおすために、オーケストラを育てるという「敢えて困難な事業に立ち向かう」ことに意義があるのだと思う。

 オーケストラがあることによる数値的な効果の分析は、次々回のエントリーに譲るとして、その機能面での利点は、社会・文化資本としてとても優れた機能を有することだと思う。オーケストラとしての再現芸術を市民に聴く機会を与え、シェレンベルガーのような「本物」の芸術を持った人々との交流の機会を与えることが出来る。個々の奏者もプロの音楽家として、ソリストから室内楽まで様々な需要に対応した音楽演奏を提供でき、指導者として子供の音楽体験を導くことも出来る。オペラやミュージカル、バレエ、演劇、映画に至るまで、生演奏で伴奏を行うことも出来る。今後はジャズやポピュラー音楽のアーティストとの共演も増えていくだろう。このように、オーケストラは万能の文化インフラなのだ。
 岡山市内に限らず、学校や病院、福祉施設にも出向いていける機動性もあるし、大阪や東京、あるいは海外に出て岡山のアピールのための演奏旅行に行くことも出来る。
 社会文化資本としてのオーケストラの役割は、今後、いっそう重要性を増してくる。オーケストラの「場」を作ることが出来る機能は、人口減少社会の行きつく先の「コミュニティの再編」局面での重要な役割を果たすだろう。


「本物」の体験は、自然体験だけでは足りない

 これは平田オリザさんの主張されていることのなのだが、文化資本、とりわけ「値打ちがあるものかどうか」を見分けるセンスや立ち居振る舞いなどの文化資本は、おおよそ20歳ぐらいまでに決定されるそうだ。子供のころの読書体験が言語的資本を培っていくのと同じように、この文化資本を培うためには、「本物」に多く触れていく、これ以外に方法は無い。「本物」に多く触れることで、偽物を直感的に見分ける能力が育ち、国際社会に出ていった時の自分自身のアイデンティティの確立にも資する。東京や関西圏など大都市には本物の文化資本に触れる機会が多く、岡山のような地方都市の子供たちは圧倒的に不利な状況に置かれている。

 『いやいや、岡山には自然がある。自然の中でも「本物」の体験ができる』という意見があるかも知れない。確かに、自然の中でも体験も、「本物の体験」だろう、そこに異論の余地はない。しかい、関西で生まれ育ってきた私が断言するのは、都市部でも「本物の自然体験」は豊富に出来るということだ。都市部では鉄道などの公共交通が発達しているので、例えば私の実家があるところは渓流遊びや滝遊びができるようなところ(六甲山系)だったが、休日には関西一円からそうした自然を求めて集まって来ていた。私の家から神戸や大阪への通勤時間は1時間を切っていたから、昼間は渓流遊びをしているガキが、夜には劇団四季を見たり、大フィルのコンサートに行ったり、ということが日常的に出来る(実際は、そんなに頻繁には連れて行ってもらっていないが、関西に住んでいたからこそ「生」の様々な舞台芸術を体験できたことは事実だ)。
 もちろん都心部在住では本物の自然体験は量的には少なくなるかもしれないが、交通機関が発達した都市圏の住民は、岡山の人々よりもアクティブなのは間違いないと思う。関西だと姫路から琵琶湖まで身近なレジャーを楽しめる、「明日は琵琶湖に行こうか?姫路城に行こうか?」という行動範囲なのだ。
 閑話休題
 こうした地方都市の子供にとって不利な状況は、オーケストラという窓口を持てば、19世紀以来の近代芸術最高の再現芸術にアクセスする手段を保有し、シェレンベルガーに代表される世界的な「本物」のアーティストと音楽を通じての会話体験によって、「本物」のシャワーを子供たちに浴びせることも可能だ。


プロの技を披露する人、プロを目指す人、聴く人見る人、応援する人、それらが岡山という地域の中で循環する社会

 私も含めた働き盛り世代は本当に忙しい。少ない余暇時間も、仕事のためのスキルアップのために費やされ、美術館に行ったりオーケストラをはじめとする舞台芸術を観たり、プロスポーツの観戦にいったりする時間が取れない。そんな人がほとんどではないだろうか?
 そして、岡山は都市としての吸引力が弱く、中心市街地で働いている人口が少ない。クラシックのコンサートでは土日はそこそこ観客が入るのに、平日の18:30開演のコンサートは大概がガラガラである。僕は今まで「そんな時間に設定している主催者が悪い」と思ってきたが、「働き方改革」が叫ばれる今、「18:30開演のコンサートに、たまにでも行けないような働き方こそが変わっていくべきなのではないか?」と考えを改めた。
 日本人はこれほどに働いているのに、労働生産性は低いままで、国際競争力も長期的には低下の一途をたどっている。「規格大量生産の時代は終わった。これからは付加価値を生み出し、高いモノでも買ってもらえる製品・サービスを売っていくことが必要だ」と、20年前から言われているが、過重労働で平日夜のコンサートにも行けないような働き方で、付加価値が生み出せるだろうか?
 岡山ではJ1リーグへの昇格を目指す、ファジアーノ岡山への応援熱が盛り上がっている。私の会社ではファジの試合がある水曜日はなるべく定時(17:30)で帰ろう、という文化が育ち始めている。水曜日にはユニフォームやタオルを持って出勤してくる人も見えるようになった。
 ファジアーノがJ1リーグに昇格してくれれば、これほどうれしいことは無いが、僕が一番良かったと思うのは、ファジアーノがこうした岡山の「アフター5」の文化を変えつつあることだ。試合を見に行く人は、残業することよりも、ファジのサポーターとして観戦に行く時間に価値を置いている、それに加え周囲の人も、ファジのサポーターの観戦に費やす時間の価値を認め、応援してスタジアムに送り出している。社会・文化資本が地域の中で尊重され、循環し始めていると感じる。


目指すのは、「文化デフレ社会」から脱却し、『文化・芸術資本の循環する社会』を創ること。
 このように市民の間にプロのスポーツチームを応援する、あるいはプロの芸術家の技に触れる、プロフェッショナル達が尊敬され、作品やパフォーマンスが正当に評価され、創作が喚起され、人々の居場所を作り、感動を呼び起こし、正当に評価された対価がプロフェッショナルの間に還流するという、『文化・芸術の循環する社会」を築く、それが岡山の街の目指すべきすがたである。その大きな波が起これば、岡山フィルの地位向上や資金の問題の解決、その結果としての岡山独自のオーケストラ文化の隆盛と楽団の実力向上への道が、おぼろげながら見えて来る。

 少し脱線するが岡山フィルの定期演奏会で毎回募集する「市民モニター」と称するコンサートのタダ券の配布。これもやめるべきだろう。1000円でもいいから身銭を切ってもらうべきなのだ。タダで聞きに来た客が(1階席の四隅の席が充てられるのですぐに分かる)コンサートが始まってまもなく、演奏の最中に席を立って扉を開けて帰ってしまうという現象を何度も目撃しているが、これは「タダで聴きに来ている行為そのものに駆動された行動」であるといえる。人がお金を払うという行為には、購入する物に対する敬意も含まれており、無償のモノには価値を見いだすことは心理的に難しいからだ。

岡山のロス・ジェネ世代が生み出してきた、「衣」「食」「住」の「本物志向」
 芸術・文化面では、まだまだこれからだが、ファジアーノに続いて「衣」「食」や「住」の消費社会では流れは変わってきている。2000年代後半ごろから、都心回帰へと人々の住まい方が変化したのと同時に、1970~80年代生まれの、バブル崩壊後に社会人になった、いわゆる「ロス・ジェネ」 世代を中心とした「本物志向」の消費に牽引され、空洞化していた市街地中心部や「役割を終えた街」の筈だった問屋町に雑貨やインテリア、ファッション関係の店舗が増え、職人の技術や仕事の価値を認めようという動きが拡がってきている。
 この世代はバブルまでの大量消費社会の洗礼を浴びておらず、青年期に価値観の180度転換を迫られた「バブル崩壊」「阪神大震災」「地下鉄サリン事件」を見てきた。流行に対して懐疑的で、自分が本当に気に入ったものしか信じないという消費傾向を持つ。アカセ木工の家具がこの世代に売れ、油亀のようなアートスペースが活気づいているのは、この世代がこうしたこだわり消費を牽引しているからだと思われる。

 そこに、2011年の震災以後の、東日本を中心とした移住者の急増や、ロス・ジェネ世代が消費者の中心としてイニシアチブを握る時代に入り(同時に岡山フィルの首席指揮者にシェレンベルガーが就任し、岡山フィルの快進撃が始まった時期とも重なる)、少しづつではあるが、「価値のあるものに対してはしっかり対価を払う」あるいは、価値があるかどうか自分では分からないものに対しても、「その価値が分かるように感性を磨きたい」という風に考える人々が急速に増えてきたと感じる。

 しかし、課題がないわけでは無い。

 これらの世代が読んでいる「オセラ」という雑誌がある。
オセラ2018年3-4月号 92号

オセラ2018年3-4月号 92号

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: ビザビ
  • 発売日: 2018/02/25
  • メディア: 雑誌


 「おとな、暮らし、ときどきプレミアム」を合言葉に、上質な大人のライフスタイルを提案している雑誌で、いわゆる従来の「タウン情報誌」から一線を画した誌面になっている。
 しかし、この雑誌には音楽文化、美術、アートなどの芸術・文化に関する記事が極めて少ない(ほとんど見たことがない)。
 雑誌の誌面は、その雑誌の読者層の鏡だ。岡山の「本物」消費を牽引している世代にとっても、芸術やアートを消費するハードルはまだまだ高いのだと思うが、やはり心の養分となる芸術・アートへの消費の高まりがなければ、なんとなく外側だけの本物志向に陥ってしまうのではないだろうか。「文化・芸術の循環する社会」への移行は、この世代の消費の広がりが不可欠である。 


『後楽園』を受け継いできた岡山だからこそ、「本物」を創造することは可能

 岡山フィルが、そんな文化資本の循環する社会の中で、次の世代に受け継がれていく、そんな姿が僕の夢だ。受け継いでゆく文化があるというのは素晴らしいことだ。自分たちが大事に育ててきたものが次世代に引き継がれ、自分が死んだ後も脈々と生き続ける。街の人々の精神安定作用にどれほど貢献することだろうか。岡山には、天下の名勝:後楽園を受け継いできた歴史があるのだ。


 次に、「文化・芸術の循環型社会」の中核となる、岡山フィル自身に必要なものは何か?について考えてみようと思う。


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国内オーケストラ業界と岡山フィル発展への研究(その5:安定財源のもたらす圧倒的な果実) [岡山フィル]

 このシリーズ記事、4か月ほど更新をサボっていましたが、先日、N響のコンサートを聞いたことにも触発されて、今回は第5回ということで「安定財源のもたらす圧倒的な果実」を見ていきます。
 第4回までのエントリーで、バロック・古典派からロマン派の主要な楽曲をカバーできるサイズ=4管編成のオーケストラを維持するためには、事業規模10億円が一つのラインであり、東京以外の地方都市において4管編成を維持しているオーケストラは、数億円規模の地方自治体支援により支えられていること。老舗の大阪フィルが地方自治体支援という屋台骨を失ったことで、大都市オーケストラの標準サイズである4管編成はおろか、3管編成すらも維持が厳しい状況に陥っていることなど、オーケストラ経営には安定的な財源が必須であることが分かった。
 民間支援の可能性が大きい大阪のような大都市圏でオーケストラでさえも、公的支援無しでは2管編成の維持がやっとの状態になってしまう。大阪では新自由主義的な競争原理が持ち込まれ、それは一定の合理性を有するため、市民の大勢に受け入れられた。しかし、結果は大都市としての品格・風格を体現し日本を代表するオーケストラでもあった大フィルの経営的な凋落を招き、『損益分岐点』である2管編成のオーケストラへと縮小均衡、その結果、将来的には大阪では同じようなサイズのオーケストラ4つがせめぎ合うという構図になることを予想した。3~4管編成の維持には莫大な初期コスト(=人件費)がかかる以上、致し方のない帰結と言える。

 今回は「安定した財源」を持つオーケストラの経営数値を見てみようと思う。私が注目したのはオーケストラ楽曲のほとんどすべてのレパートリーをカバーできる規模である4管編成のオーケストラ。
 ここで取り上げるのは日本を代表するオーケストラ、誰もが知っている「N響」こと、NHK交響楽団だ。

 言うまでも無く、N響はNHKからの補助金が主な財源となっているが、その額はなんと14億円!!(2015年度実績)
 資金難に瀕する大フィルなどからすると「そのうち1億円くらいわけてくれてくれい!」といいたくなる額だ。

 しかし、N響の財務面での強さはそれだけではない。経営数値をもっと詳しく見ていくと、N響がNHKからの補助金に依存しているだけのオーケストラでは無いことが分かる
 2015年度の演奏収入ランキング

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 N響は演奏収入の面でも東京フィルに次いで2位。もう少し掘り下げて、演奏収入を楽団員数で割った数値、すなわち楽団員一人当たりの収益力を見てみると、これも3位に付けている。

楽団員一人当たりの収益力(2015年)
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 この数値にはNHKからの支援は入っていないため、純粋にコンサートだけでどのぐらい効率的に稼げているかがわかる。演奏収入では1位だった東京フィルは、楽団員一人当たりに直すと、それほど効率的には稼げていない

 もう一つ民間からの支援を見てみよう。

民間支援ランキング(2015年度)
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 1位の読響は経営母体の読売新聞社からの資金が計上されているので別格としても、ここでもN響は3位の位置につけている。そういえば今月のN響の中国地方ツアーも、エネルギー関連企業がスポンサーになっていた。

 安定したNHKからの14億円もの財源で演奏能力の向上と優秀な奏者を採用し、国内随一の指揮者とソリストによる魅力的なプログラムにより、国内屈指の収益を叩き出し、かつ公共放送による露出の高さに加え、伝統とブランド力を備える。潤沢で安定した財源が投資を呼び、スポンサーも続々と集まってくる、いわば「総取り」経営が見て取れる。
 読響や都響など、財源が安定している他の在東京オーケストラも同じような状況だといえるだろう。

 いわゆる「御三家」のオーケストラだけでなく、名古屋フィル(4位)、札響(9位)や広響(10位)、京響(13位)、群響(14位)などの地方都市オーケストラも、行政からの補助金だけでは無く、民間資金も積極的に獲得している。
 市民の税金が原資の補助金を投入する過程には、納税者の理解や政治的利害調整が必要であるし、そのプロセスの中でオーケストラに公的資金を投入する意義についての議論は避けて通れない。
 公的支援に頼らない経営が理想なのは間違い無いが、一方で、地方都市では行政が補助金を出すことによってその事業の信用度や文化的投資への決意を見せることで、民間スポンサーも俄然、集まりやすくなる。逆に言えば行政がお金を出さない事業に民間もお金は出せない、というのが現実だろうと思う。

 このようにオーケストラにとって、『安定財源』の確保が経営上極めて重要であることがわかる。今回見てきたN響や大都市のオーケストラの経営数値が明らかにしているように、安定した財源(地方自治体支援など)があれば積極経営にも打って出られるし、民間からの支援も集まりやすくなる。経営の選択肢が増え、相乗効果を生み出していくことで事業規模をさらに拡大していくことが出来る。プアな財政で楽団員に際限の無いプロ根性や反骨心に期待するような経営では、やはり無理が来るのだ。

 第4回で取り上げた大フィルを例に取ると1億7万円の公的補助を出し惜しんだがために、3.7億円と48,000人の経済活動の縮小を招いている。このまま打開策が無ければ中小規模の4つのオーケストラがひしめき、かつての「大フィル」「朝比奈隆」のブランド力がそのまま大阪のブランドやアイデンティティに寄与していた状況を失ってしまうことになる。お金では換算不可能な莫大な損失だ。 

 翻って岡山の状況について考えてみると。岡山市が岡山フィルへの支援を表明しているのは心強いが・・・果たして、見通しはどうなのか?次回以降は岡山フィルの今後について考えてみたいと思います。

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行けなかった岡山フィルの第55回定期のプログラムを貰う [岡山フィル]

 3月11日~12日にかけて、普段の5倍ほどのアクセスを頂きましたが、岡山フィルの第55回定期演奏会には、わたくし、仕事で行っておりません。。。
 この日は私と同業者もかなりの割合で欠席したみたいで(この3月2週目の週末っていうのが、私の居る業界では特異な日・・・なんですよね。私は別種の仕事で欠席でしたが)、ホールの入りが気になりますが・・・
 ネット上での感想を拝見すると、演奏は非常に良かったそうです。
 今日、お彼岸のお供え物を買いに某百貨店(岡山フィル企業会員になったら名前をクレジットするようにします(爆))に行くついでに、シンフォニーホールによって、さらぴんのチケットを見せて当日のプログラムを貰ってきました。
 気になっていたのは、今回の定期演奏会から首席奏者の試用期間が開始されていること。メンバー表を拝見すると、やはり今まで登場なさっていた在東京・関西のオーケストラの助っ人主席の名前が無く、フリーの奏者の名前が多かったです。
 ただし、チェロの首席の松岡さん(都響)、ホルンの久永さん(読響)の名前があるなど、これらのパートはまだ決まっていないか、もしくは首席以外のポジションで参加していた可能性もありますね。
 メンバーの中には、若手の方も居れば、「うそやろ!?」っていうぐらい実績のある方(N響元首席の方や、著名室内楽団体の所属の方)もいらっしゃって、これらの方が岡山フィルの首席として正式に就任すると、これまでと同等の演奏水準は保証されるばかりか、楽団としての一体感が増すことを考えると、もっと良くなっていくのではないか?と期待してしまいますね。

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NHK交響楽団倉敷公演 指揮:ブルニエ Pf:上原彩子 [コンサート感想]

NHK交響楽団 倉敷公演
ラフマニノフ/ピアノ協奏曲第3番
 ~ 休憩 ~
ドヴォルザーク/交響曲第8番
指揮:ステファン・ブルニエ
ピアノ独奏:上原彩子
コンサートマスター:篠崎史紀
2018年3月10日 倉敷市民会館
 会場はほぼ満席。平日夜の倉敷市民会館を満席にできるのは、このN響ぐらいだろう。さすがの動員力です。
 N響岡山定期消滅後も、なんだかんだいって2年に1回は岡山に来てくれるN響。パーヴォ・ヤルヴィ就任後は、TVで見ていても、実演でもどんどん高みへと昇って行っている感がありましたが、ここ倉敷でも益々充実の演奏を披露してくれた。ソリストの上原さんは、抜群のテクニックと美しい音色、打鍵の多彩さは健在。終演後は物凄い盛り上がり。
 指揮のブルニエは、本場の歌劇場で実績を重ねる本格派。躍動感溢れる音楽が信条のようで、旋律の歌わせ方も巧みで風景が目に見えるような音楽づくり。メロディメイカー:ドヴォルザークのボヘミア愛を見事に表現。大満足のコンサートだった。
(3月16日 追記)
 コンサートから時間が経ってしまいましたが、帰りのJRの中でメモしたデータを頼りに感想を続いて書こうと思います。
 前半のラフマニノフの3番。2年前にバーミンガム市響をバックに河村尚子さんが同じホールで同じ曲を演奏し、強く心に残る演奏を披露してくたが、今回の上原さんも凄い演奏でした。どちらの演奏も甲乙付けがたい、恐ろしくハイレベルな演奏。
 上原さんは、第2楽章などでの繊細で柔らかい表現は、真綿をつかむようなタッチで、光に包まれるような幸せな音を奏でる。その一方で、第1・3楽章の強い打鍵が要求される場面の迫力も、客席で聴いていると気圧されるような迫力があった。特に、第3楽章の後半で1度ギアを上げた瞬間は驚きました。「ラスト・シーンまでには、まだまだ曲が残っているのに、すでにこんなに強い音を出して、最後はどうやって締めくくるのか?!」そう思って聴いていくと、ラストシーンではさらにもう一段ギアを上げた強い打鍵で、N響を向こうに回して大立ち回りを演じた。いやはや、これには本当に参った。
 一方で、上原さんはオケとともに大きな音楽を作って行こうとする志向が強く、指揮者だけで無くコンマスのMAROさんや、第1・2楽章の管楽器と合わせる場面では、その間パートの方を向きながら、一体的に音楽を作っていた。
 N響も冒頭からの弦の翳りのある音から「ハッ」とさせられ、宇賀神さんのファゴットに早くも心をつかまれる。木管はクラリネットもフルートもオーボエも、岡山ではなかなか聴けない見事なソロ・合奏を聴かせ、弦楽器も終始つややかで、上原さんの音とも絶妙に合っていた。
 本当に、聴き応えのあるコンチェルトだった。
 後半はドヴォルザークの交響曲第8番。このところのN響の好調さが感じられる若々しく躍動感あふれる演奏だった。
 岡山にはN響はよく来てくれる方だと思いますが、以前は、確かに文句の付け所の無い、まったく綻びの無い演奏をするんだけれども、なんとなく「管理された演奏」を聴かされるようなところがあった。
 今のN響は、本当に充実していると感じる。クラシック音楽館でも、最近は毎回のようにいい演奏を聴かせてくれているし、いい具合に世代交代が進んで、個々の奏者のモチベーションが極めて高そうだ。ヴァイオリン・ヴィオラ部隊なんて、弓ブチブチ切りながらの躍動感あふれる演奏に、「地方公演でここまでやってくれるんだ」と感激した。
 ブルニエも、さすがに歌劇場で実績のある指揮者。中央ヨーロッパの情景が目の前に浮かんでくるようで、名曲中の名曲の旋律美のうま味を骨の髄まで引き出していく。
 今やザルツブルグ音楽祭にも呼ばれるほど、国際的評価が定着したN響、これぐらいはやって当然かもしれない。同じホールでこれまで聴いて来た、パリ管・RCOやゲヴァントハウス管、これらの超・超一流オーケストラに、テクニックだけでなく音色の美しさなどでも追随してきている感じがあります。ただ1点、物足りない点を挙げると、これらのオーケストラには、トゥッティーの際には座席に体が押し付けられるような圧迫感を感じる様な音の圧力がありました。N響も決して鳴っていないわけでは無い(去年の新日本フィルよりははるかに鳴りが良かった)のですが、やはり世界の超・超一流のオーケストラが奏でる、夢のように美しい音の洪水に身体が押し倒されるような圧倒的な力・・・、この部分が欲しいな、というのが正直な感想です。
 N響の岡山定期演奏会が無くなった当時は、それを惜しむ声が聴かれましたが、4年前のヴァルチュハ&諏訪内晶子、2年前の井上道義との岡山公演など、なかなかの座組でやってきてくれています。中国・四国地方の巡回公演では、岡山は絶対に外せないマーケットなのだろう。ほぼ2年に1回のペースで聴けている印象だ。
 岡山フィルの定期演奏会の回数は増えたし、結果的に岡山のファンにとっては、これで良かったんじゃ無いでしょうか。

 アンコールは、スラヴ舞曲集第2集から第2曲。


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三浦文彰 ヴァイオリン・リサイタル 岡山公演 [コンサート感想]

三浦文彰 ヴァイオリン・リサイタル
ヴァイオリン:三浦文彰
ピアノ伴奏:イタマール・ゴラン
 
モーツァルト:ヴァイオリン・ソナタ ニ長調 K.306
R.シュトラウス:ヴァイオリン・ソナタ 変ホ長調 op.18
~ 休 憩 ~
(作曲者・曲名失念)赤とんぼの変奏曲?
(曲目自信なし)バルトーク:ルーマニア民俗舞曲から?(あやふやな記憶)
チャイコフスキー:「懐かしい土地の思い出」からメロディー
チャイコフスキー:ワルツ・スケルツォ ハ長調 op.34
チャイコフスキー:感傷的なワルツ op.51-6
サン=サーンス:序奏とロンド・カプリチオーソ イ短調 op.28
 
2018年2月26日 岡山シンフォニーホール
 
 後半プログラムが変更になって、三浦さんからアナウンスはされたものの(ホールの残響で聞き取りにかった、あと演奏中にはメモを取ったりしない主義なのと筆者が記憶力に乏しいため)、当日は楽章構成も何も書いていないコンサート案内チラシが配布されたのみで、プログラムが無いので曲目を確認することも出来ません。主催者からの掲示やHP等での事後フォローもないので、曲名があやふやなままです。赤とんぼのメロディーの変奏曲のような曲と、バルトークのルーマニア民俗舞曲から1曲?(だと思うんだけど)。あと、チャイコフスキーの「懐かしい土地の思い出」のメロディー、これぐらい有名な曲ならばわかるんだけれども・・・。コンサートに行って、演奏された曲がわからないまま、というのは気持ちが悪いものです。
 
 三浦文彰さんの演奏は、大フィル定期演奏会で演奏されたハチャトゥリアンのヴァイオリン協奏曲での凄演が強く印象に残っています。
 
 会場は2階・3階を閉鎖し、1階席+バルコニー席の5割ぐらい(600人ぐらい?)の入り。三浦文彰といえば大河ドラマ「真田丸」のソロ演奏で有名になり、メディアにも露出が多いアーティストの一人だと思うが、月曜の夜のコンサートということを差し引いても、もう少し入ってもいいんじゃないの?という印象。
 
 演奏は、後半のヴァイオリンの名曲を並べたプログラムでの演奏が、やはり凄かった。文句なしです。超絶技巧のみならず音にコクと照りがあり、いつまでもず~~っと聴いていたい美音だった。
 
 前半は、久しぶりに1階に座ったこともあって、前半1曲目のモーツァルトのソナタの演奏が始まった瞬間、自分の頭のはるか上を過ぎていくようなヴァイオリンの音に、正直言って戸惑った。10分ぐらいすると耳が慣れてきたが、ヴァイオリンのソロといえども、やはりこのホールは2階席で聴きたい。
 三浦さんの演奏は、まさに天衣無縫というべきもの。美音のささやきのようで魅了されたが、(楽章間に拍手が入ったこともあって)曲全体の構成感がやや不足していて、「モーツァルトのソナタを聴いた」というよりも、小品を3曲聴いたような印象が残った。
 
 しかし、R.シュトラウスのソナタでの演奏は三浦さんの美音に磨きがかかり、素晴らしい演奏になった。現在の三浦文彰を聴くならば、後半のロマン派の小ピースか、もしくはこのR.シュトラウスのようなコテコテの後期ロマン派の耽美的な音楽が合っているようだ。かといって外連味のある演奏ではなく、的確に音をとらえてく、どちらかといえば誠実な演奏。三浦さんの奏でる音の美しさがとにかく際立っていて、音楽そのものが持つ美しさをよく引き出していた。
 そしてピアノのゴランさんの演奏がこれまた素晴らしく、粒が立った音を変幻自在の音色で彩り、もはら伴奏の域を超えている。さすが世界屈指のピアノ室内楽奏者だと思った。三浦さんにとってはこれほど心強くも手ごわいピアノ伴奏者はいないでしょうね。三浦さんの美音とゴランさんの絶妙のタッチから繰り出される美音の饗宴に、陶然と耳を傾けた。
 
 アンコールはグルックのメロディー(歌劇「オルフェオとエウリディーチェ」の中の曲のようだ)、そしてクライスラーの中国の太鼓。
 
 松江公演のプログラムには、ベートーヴェンの6番ソナタと、ブラームスの雨の歌を並べていて、プログラム的にはそちらの方が良かったな。次回のリサイタルはクラシックのソナタを並べるガチンコ・プログラムで聴きたいと思いました。

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「三浦文彰 ヴァイオリン・リサイタル」の感想の前に [クラシック雑感]

 昨日、三浦文彰さんのヴァイオリン・リサイタルを岡山シンフォニーホールへ聴きに行きました。その感想を書こうと思っていたんですけど、演奏そのものとは関係のない、運営面で腹の立つことが多くて、いったんそのことについて書き散らして、頭の中から追い払ってから三浦さんの演奏については、また後日書きたいと思う。
 
 私は音響の素晴らしい岡山シンフォニーホールを愛している、このホールは音が素晴らしいだけではなく、主催公演のスタッフの教育が行き届いている。サントリーホールのように全員がプロのホールスタッフというわけではなく、ボランティアのスタッフが大半を占めるが、彼らに対する教育が行き届いていて、「何を差し置いても音楽が主役であること」という思想が徹底されているし、「その存在を忘れるぐらい、さりげなくもしっかりと仕事はするスタッフ」を送り出している。岡山フィルの定期演奏会をはじめ、彼らの働きに毎回敬意を表するものである。
 
 しかし、ホールが主催しない、いわゆる貸館公演の場合は、その事業主催者が会場運営を行うのだが、岡山はその質が概してよくない。
 
 昨日のコンサートは、バイトくんのスタッフだけがやたら多かった。その割に印刷されたプログラム(有料も含めて)が配布されておらず、まあ、三浦さんがマイクを取ってプログラムについて説明してくれたからよかったようなものの、その日のコンサートへの思いやプログラムの意図をくみ取る重要な手がかりがなかった。せめてモノクロでもいいから楽章構成ぐらいは書かれたプログラムが必要だろう(イマドキ、たとえコンサート当日でもオルフィスで印刷すれば、700枚のプログラムなんてあっという間に出来るだろう)。前半のモーツァルトとR.シュトラウスのソナタでは毎楽章拍手が起こって間延びしてしまった。
 
 それぐらいはよいとしましょう。問題なのは、そのバイトくんとマネージャーか社員さんたちが、会場の入り口からホールのロビーに至るまで(あえて言いましょう)ムダに動き回って「携帯の電源を切れ」だの「カメラの撮影は見つけたらしょっぴく」だのと、常に声を張り上げている。コンサート前の非日常の時間が台無しだ。
 こちらも気になりだしたらだんだん腹が立ってくるもので、マネージャーっぽい人物が若いバイトの兄ちゃんを集めて何やら指示をだしているのだが、そこ、思いっきりホール内への出入り口の導線に被ってるから!一番偉そうなあんたが一番、客の邪魔だから!もうちょっと、人目を引かないところで集合をかけろよ!誰にアピールしてるんだ!?などと、だんだん腹が立ってくる。
 逆にバイトくんが「俺たち、邪魔になってるんじゃないかな~」と、通路に目線をおくっていたのが印象に残る。
 演奏が始まると、バイトくんは起立してドアの前に立っている。ここで嫌な記憶がよみがえる、4年ほど前に佐渡裕&兵庫PACオケの岡山市民会館でのコンサートで、会場見張りのバイトくんがじっとしていられなく、ずっとそわそわしていて、聴き手のこちらも気になって集中できなかったこと、あのコンサートも同じ主催者だっけなぁ。
 でも、この日の会場見張りの二人のバイトくんは偉かった。直立不動、微動だにせず、仕事を全うしていた。でも、岡フィル主催のコンサートみたいに会場見張りの子は椅子に座らせましょう。岡山シンフォニーホール主催のコンサートの運営を見て勉強していないのか?マネージャーさん。

 休憩時間中にはいり、いつもならロビーに出るのだが、「ロビーに出たら、また『携帯の電源を切れ』だのとオッサンが声を張り上げてるんやろうなあ・・・、そんなん、三浦さんの美音の余韻が台無しやん」と思って、ホールの中に引きこもっていたら、なんと、そのおっさんがホールの中に入ってきて、「携帯の電源を切れ、演奏が始まったら客席には入れない」と、注意をして客席を回っていた。ホンマ、首を絞めたろかと。
 失礼・・・取り乱しました。
 確かに、携帯の電源やカメラや録音禁止の注意は必要。実際、昨日も演奏中に携帯が鳴ったしね(おっさんの汚い声の注意を聴かされた上に、三浦さんの演奏中に着信音を間近で聴かされた自分、ホントに踏んだり蹴ったり・・・)。
 でも、昨日のやり方は「何を差し置いても音楽が主役」であるクラシックのコンサートでの注意喚起の方法としてどうなのか?じっくり反省をしていただきたい。くらしきコンサート主催公演では、プラカードを持って回っていたり、あるいは岡山フィルの公演では女性の声でのアナウンスで、注意喚起しています。
 おっさんの肉声で大声で叫んで回る、っていう対応は効果がないばかりか、最悪の対応の仕方だと思う。私は美しい音楽を聴きに来たんです、オッサンの声を聴きに来たんじゃないよ。前半の三浦さんの美音の余韻が台無しだわ、ある意味フライングブラボーと同じコンサート破壊行為ですよ。それを主催者が犯してどうするの?
 昨日のコンサートの主催者に告ぐ、あなたがたはイベントのプロかも知れないが、クラシック音楽のコンサート運営のプロではないよ。先にも書いた通り、プロのホールスタッフやレセプショニストは、仕事はするが存在感は消す。そして、そこで演奏される「音楽」が引き立つために、どうすればいいかを真剣に考えて行動する、そういう対応ができる人です。
 クラシックのコンサートが、なぜセットを組んだり照明演出をしないのか?オーケストラ奏者をはじめ、なぜ演奏者は燕尾服やシンプルな服装で演奏するのか?すべて主役である音楽にすべてを捧げるためです。
 コンサートが終わって、追加されたプログラムやアンコールの曲目を確認しようとロビーやエントランスを見回したが、どこにも貼られていない(僕が見落としたんでしょうか?でも、他にも「アンコールの曲目がわからない」と探しているお客さんがたくさんいました)。ホント、最後まで仕事のなっていない運営に、笑けてきました。
 それに対比して、普段のシンフォニーホールの仕事がいかに素晴らしいかもよく解った。頼むから、今後は岡山シンフォニーホールのプロの仕事に準拠した会場運営をしてください。よろしくお願いします。

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クァルテット・ベルリン=トウキョウ 2018冬 岡山ルネスH公演 [コンサート感想]

ルネスクラシックシリーズ Vol.17
クァルテット・ベルリン=トウキョウ 2018岡山公演
 
モーツァルト/弦楽四重奏曲第19番ハ長調「不協和音」
バルトーク/弦楽四重奏曲第1番
ベートーヴェン/弦楽四重奏曲第9番ハ長調「ラズモフスキー3番」
 
守屋剛志(第1ヴァイオリン)
モティ・パヴロフ(第2ヴァイオリン)
ケヴィン・トライバー(ヴィオラ)
松本 瑠衣子(チェロ)
 
2018年2月10日 ルネスホール
 
 記録を辿ると、このクァルテット・ベルリン=トウキョウ(以下、QBTと略)を聴くのは6回目になる。岡山という、決してクラシック音楽が盛んとは言えない土地で、これほどのレベルの弦楽四重奏団の演奏を、まるでシリーズのように毎回違った名曲で楽しめる・・・。これほどの僥倖があろうか。
 しかも第一ヴァイオリンの守屋さんは、東京芸大在学中には地元のアマ・オケなどの演奏会にソリストとして登場していて、その並外れた音楽性を存分に発揮されていた。それが今や世界的室内楽団体を率いて毎年凱旋してくださる。2010年以降の岡山のクラシック音楽シーンを後世で語られるとき、シェレンベルガーの岡山フィル首席指揮者としての活躍と、このQBTの連続室内楽シリーズが語られ続けるだろう。 
 そんなわけで、僕がこのQBTのコンサートにおいて冷静に感想を書くことなどできないわけでありますが、今回も本当に満足のコンサートだった。
 先に、バルトークの1番から。同じくバルトークの3番を、2年前の県美公演で聴いており、当時もQBTのアンサンブル能力の桁外れの高さに舌を巻いたのだが、今日の公演は3曲とも配置を入れ替えており、守屋さん(1stVn)とパブロフさん(2ndVn)が対向配置で向かい合い、守屋さんの隣にトライバーさん(Va)、その隣に松本さん(Vc)という配置だった。QBTは守屋・松本の二枚看板という印象だったのだが、この配置でパブロフさんと守屋さんが掛け合う構図が明瞭になり、守屋・松本・パブロフの3人の奏者が真剣で殺陣を繰り広げ、そこへトライバーが割って入る隙を伺うような、そんな緊張感が痺れる掛け合いとなった。バルトークの真骨頂の民俗舞曲調の場面での燃焼度は、以前にもまして高い。やはりQBTは凄い。
 モーツァルトの柔らかい息遣いと「間」の変化は、「やはり世界トップレベルのクァルテットは違う!」と思わせるに十分。ベートーヴェンのラズモフスキー・セットは、3年前に第1番を聴いているが、今回の第3番は貫禄と迫力十分の横綱相撲。前回の「大フーガ」が、一生心に残るような演奏を聴かせてもらったのと同様、今回もQBTのベートーヴェンを聴かせてもらった。ベートーヴェンの気高くも美しい音楽が、心の襞に沁みわたるようだった。
 もっと詳細に感想を書きたいのだが、物書き仕事が溜まっているので、とりあえず筆を置きます。気が付いたことは箇条書きで追加するかもしれません。
 
 
 ・守屋さんのプログラムトークによると、今回のプログラムの変更には理由があって、差し替え後のモーツァルトの「不協和音」はベートーヴェンの「ラズモフスキー第3番」に多大な影響を与えている、ハ長調という調整も同じなら曲のモチーフも類似性が見られる。しかし、だからこそモーツァルトとベートーヴェンの違いが分かるのではないか、ということで差し替えを行った、とのこと。
・アンコールには、当初のプログラムに組まれていた、ハイドンの弦楽四重奏曲第76番ニ短調「五度」から、第4楽章。
・今回のツアーでは岡山公演が2回組まれていて、2月6日には岡山大学Junko Fukutake Hall で、ハイドン79番、バルトークの2番、ショスタコーヴィチの9番を演奏した由。こちらにも行きたかったが、火曜日昼間の公演で断念せざるを得なかった。。。

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岡山フィル特別演奏会 ニューイヤーコンサート2018 シェレンベルガー指揮 [コンサート感想]

岡山フィルハーモニック管弦楽団 ニューイヤーコンサート
モーツァルト/歌劇「魔笛」ハイライト
~第1幕~
 序曲
 No2.アリア「私は鳥刺し」
 No.3アリア「なんと美しい絵姿」
 No.4レチタティーヴォとアリア
 「ああ、怖れおののかなくてもよいのです、わが子よ!」
 No.7二重唱「愛を感じる男の人達には」
~第2幕~
 No.14アリア「復讐の炎は地獄のように我が心に燃え」
 No.15アリア「この聖なる殿堂では」
 No.17アリア「ああ、私にはわかる、消え失せてしまったことが」
 No.19三重唱「愛しい人よ、もうあなたにお会いできないのですか?」
 No.20アリア「パパゲーノ様が欲しいのは一人の可愛い娘っ子」
 No.21二重唱「パパパの二重唱」
 No.21フィナーレ「太陽の輝きが夜を追い払い」
  ~ 休 憩 ~
リムスキー=コルサコフ/交響組曲「シェヘラザード」
 
指揮:ハンスイェルク・シェレンベルガー
ザラストロ:渡邉寛智(バス)
タミーノ:柾木和敬(テノール)
夜の女王:阪本清香(ソプラノ)
パミーナ:池田尚子(ソプラノ)
パパゲーナ・案内役:川崎泰子(ソプラノ)
パパゲーノ:鳥山浩詩(バリトン)
ゲストコンサートマスター:依田真宣


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 「パースペクティヴ!!」
 この素晴らしいホールに岡山フィルあり!


 今日の後半のシェエラザードの演奏を、無理やり一言で表すとこれに尽きるのではないかと思う。

 ベートーヴェンやブラームスで魅せたどっしりとした構築美でもなく、去年の「ばらの騎士」組曲で魅せたロマン派の黄昏の燃えるような美しさでもなく、今日のシェエラザードはとにかく華やかにオケが鳴りまくった!開館25年を超え、熟成の極みの時期に入った岡山シンフォニーホールの絶好の音響を最大限に味方につけ、オーケストラのポテンシャルとホールのポテンシャルが見事に融合され、3Dの空間の中に遠近取り混ぜて様々な音が振って来る、このホールならではの体験ができた。 

 聴き慣れているはずのシェエラザードから、思いもしなかった音があちこちから聞こえてきて、宝石箱をひっくり返したような、どころの話ではなく、このホールそのものが美音の鉱脈であることを、今回ほど心底実感できた演奏会は無かったです。このホールには、やはり管楽器の高音や様々なパーカッションが登場するような華やかな曲が似合います(予算はかかるんでしょうが・・・)。


 シェレンベルガーさん、ベートーヴェン・ブラームスが中心レパートリーだと思っていたのですが、オーボエ演奏の録音ではフランス・イタリアものも得意だし、今回から3回連続で続くロシアものシリーズの1回目は、これ以上無いぐらいに見事に料理。今回のモーツァルト、R=コルサコフもそうですが、曲のイメージが明確で音楽が体に浸透してくるような心地よさがあります。まだまだ少なくとも10年は岡山でやっていただくレパートリーがありそうですね(笑)


 この日の編成は12型2管編成。1StVn12→2ndVn10→Va8→Vc8、上手奥にCb6本。
 お客さんの入りは8割ぐらい入ってたんじゃないでしょうか。依然として好調な動員が続いています。
 
 この日のコンサート、開演前からチェロアンサンブルにシェレンベルガーさんのプレトークと、イベントが目白押しだったんですが、予定外のことが起こって、ホールに着いたのが開演約30分後・・・。前半を聴くことは諦めていたんですが、「魔笛」のハイライトが1時間を超えるボリュームがあったので、第2幕から入れてもらえました。
 もう演奏が始まりそうだったので自席に行くのを諦め、おそらくこのホールの中で屈指の「音の悪い席」である(爆)、2階席の一番奥で聴いたんですが、6名の声楽の皆さん、その位置までよく声が届いていました。(自分が遅れたために)いきなり夜の女王のアリアから聴くことになったんですが、一気に惹きこまれた。
 
 オペラ・アリアのハイライトとはいえ、振り付けを交えて歌を歌われていて、特に鳥山さんのパパゲーノはその場面が見えるようでした。女声の3名は歌の素晴らしさはさることながら、3名とも抜群のヴィジュアルに加え、それぞれの役にあった佇まいで、僕のようにオペラにあまり馴染みのない人間には、これは大切な要素だったと思う。
 第2幕だけでも見られて本当に良かった。
 
 休憩後にいつもの定位置に戻り客席を見渡して驚いた。若い年齢層のお客さんが多い。60歳~70歳ぐらいが主要客層なのは他のオーケストラと同様だが、30代~40代ぐらいの年齢層もそれに対抗できるぐらいのボリュームがある。
 
 後半のシェエラザードが始まったのは開演から1時間20分が経過していた。シェレンベルガーが組むプログラムは、毎度毎度ボリュームが満点である。聴きに来た客を絶対に満足させるという意思が伝わってくる。
 音響の悪い席からいつもの定位置に来ると、このホールの美点:音の広がりやどんな大音量でも包み込んでしまう懐の深さ、そして細かい息遣いまで聴こえて来る繊細さを実感した。前半、音の良くない席に一度座ることで、かえってこのホールのポテンシャルを明確に実感した。
 
 今回のコンサートマスターはゲストの依田さん。東京フィルのコンサートマスターのようだ。僕は、昨年10月に就任した高畑コンマスのソロを楽しみにして来たのだが、少々肩透かしを食らった感じ。予定が合わなかったのでしょうけど。
 しかし、この依田さん、この年齢(たぶん20代後半?)で東京フィルのコンマスに採用されるだけあって、凄いソロだった。ソロがある時間帯は「これはもう、ヴァイオリン協奏曲だな」と思うほどの存在感があった。
 
 シェエラザードは和声学や管弦楽技法の大家でもあったリムスキー=コルサコフ渾身の名作で、色々なオーケストラが「勝負曲」にしている曲。それだけに去年の京響をはじめ、過去に生演奏に接した回数が多い曲。

 僕はこの曲について、愛の物語ではなく、人間不信に陥り暴君と化した権力者を、物語の読み聞かせセラピーで癒していく話、だと考えている。だから、アラビアンナイトの物語の上っ面をたんに音楽で語っているだけでは凡百の演奏に埋没してしまう。童話や昔話の中に、物事の心理や人間の業や性が描かれているように、この曲にも権力と人間の危険な関係、自我の崩壊によって新たな人格の再生があることなどを描いているように思う。
 そういう視点で聴いても、シェレンベルガーのタクトさばきは見事だった。

 まず、第1楽章の冒頭からトロンボーン・チューバ、低弦などで提示される狂気の権力者:シャリアール王のテーマが行き場のないエネルギーと、奈落の底へ落ちていく心の闇を描き出していたし、物語を読み聞かせるシェエラザードを表すヴァイオリンのソロも、夢のように美しい一方で、第1楽章から第3楽章までのソロを取る場面では物語の中に溶け込んでいつつも、一歩引いた冷静な目線を感じさせている。これによって、今聞いている世界はシェエラザードが読み聞かせている架空の世界であることを、聴く者の頭の片隅に意識させていた。このシェエラザードを表すヴァイオリンのソロの取り扱いを間違うと、この曲は単なる情景描写の交響詩になってしまう。
 
 個々の場面ではシェレンベルガーさんらしいがっしりとした曲の躯体がありつつも、節回しのこぶしの効かせ方は、フランスオーボエ名曲集やイタリアバロック協奏曲集などの名盤で聴かせる、ロマンと歌心にあふれる鮮やかなオーボエ演奏と通底するものを感じた。
フランス・オーボエ名曲集

フランス・オーボエ名曲集

  • アーティスト: シェレンベルガー(ハンスイェルク),デュティーユ,ベネット,サン=サーンス,プーランク,ボザ,ケーネン(ロルフ)
  • 出版社/メーカー: 日本コロムビア
  • 発売日: 2005/12/21
  • メディア: CD
イタリア・バロック・オーボエ協奏曲集

イタリア・バロック・オーボエ協奏曲集

  • アーティスト: イタリア合奏団,シェレンベルガー(ハンスイェルク),アルビノーニ,ヴィヴァルディ,サンマルティーニ,A.マルチェルロ
  • 出版社/メーカー: 日本コロムビア
  • 発売日: 2010/08/18
  • メディア: CD
 それにしても(冒頭でも書いた通り)、やっぱりこのホールは凄い!こういうパーカッションが華々しく、木管の(特に高音の)饒舌な曲でこそ、本領を発揮する。これまで十数回は生演奏で聴いているこの曲から、これまで聴こえて来なかったことがたくさん聴こえてきた。
 
 第4楽章のシンドバッドの海が荒々しく再現される場面でのハープのグリッサンドが、あれほどクリアに聴こえて来る体験は初めてのことだったし(ハープは朝比奈時代の大フィルの名ハーピストの今尾さんが乗っていた)、その際に何度も打ち鳴らされるシンバルは、振動を利用して擦りあげるような奏法で、嵐の場面を描いていると同時にシャリアール王の頑なな自我の最後の断末魔を現しているような劇的なものだった(その頑なな自我は、タムタムの一撃による倍音の中に消えていったように感じられた)。
 第2主題の金管のファンファーレに呼応して奏でられる、弦のピチカートは、さながら何百台もの竪琴が自分の意思を持って陽気に踊っているようだった。
 
 パーカッション陣も特に第4楽章では隙の無い対話を繰り広げ、金管も迫力満点ながら、デリケートなコントロールとハーモニー重視の姿勢が貫かれていた。特筆すべきは木管で、ソロも見事(ファゴットうま過ぎ!)、合奏も溶け合って素晴らしい音だった。お名前を検索すると今回の助っ人主席にはフリーの方が多かったようで、この中に正式な岡山フィル首席奏者に残ってくれる方がいらっしゃることをお祈りしたい。
 
 弦楽器も好調さを維持、高畑コンマスに代わってからオーケストラの一体感が飛躍的に向上したのだが、今回、客演コンマスが入っても、一体感は失われなかった。
 細かいダイナミクスをごく自然に表現されていることと(息が合う、というのはこういうことかと思う)、弱音部でも一つ一つの音がしっかりと演奏されていて、この曲に関してはffは近景を、ppは遠景を表していることが多く、全体を通して立体的かつパースペクティヴな音楽が、岡山シンフォニーホールの空間に響き渡った。その瞬間のなんという至福の時間であったことだろう。
 とりわけ、第4楽章の燃焼度は相当なもので、聴く者だけではなくオーケストラ奏者自身もみな、カタルシスを味わった演奏ではなかったでしょうか。
 僕は、残念ながら次回(3月)の定期演奏会は仕事のため泣く泣く欠席です。 シェレンベルガー指揮のショスタコーヴィチの5番交響曲は関西フィルで聴いていますが、きっと岡山でも素晴らしい演奏になると思います。迷われている方がいらっしゃたら聴くべし!ですよ。

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ベルリンの壁「解放」コンサート ベルリン・フィルによるベートーヴェンの7番 [クラシック音盤]

 昨年10月の岡山フィルの定期演奏会でベートーヴェンの7番を聴いていたとき、第4楽章でのあまりの熱量のある演奏と、シェレンベルガーがあまり見せない我を忘れるような激しいタクトに驚き、当日のブログにこう書きました。


『この日のコンサート、ここまでが非常にハイカロリーかつ異常な集中力連続だったので、「最後まで持つかな?」と心配したのもつかの間、シェレンベルガーのタクトの勢いは一層熱を帯びていきます。これほど激しいタクト捌きを見せたのは、東日本大震災被災者鎮魂のためのドイツ・レクイエム以来です。』


 我を忘れたように激しいタクトを見せるマエストロ、それはこの6年間で「ドイツ・レクイエム」とこのベートーヴェンの7番の2回のみ。滅多に見せない激しさに圧倒されると同時に、私はある歴史的コンサートの演奏を思い出していました。それは、ベルリンの壁崩壊のわずか3日後にベルリン・フィルハーモニーへ東ベルリン市民を招待して行われた記念コンサートです。


DSC_0768.JPG



「ベルリンの壁 解放記念コンサート」

ベートーヴェン/ピアノ協奏曲第1番(※)
   〃   /交響曲第7番


指揮&ピアノ独奏(※):ダニエル・バレンボイム

ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

1989年11月12日 ベルリン・フィルハーモニーでのライヴ録音

ソニー・ミュージック


 第4楽章の途中で「シェレンベルガーさんは、このコンサートについて思い返しているのではないか」と感じたのだが、そのコンサートにシェレンベルガーが参加していたかどうか、その時点ではわからなかったし(ベルリン・フィルともなると2人以上もも首席奏者を擁しているので、すべてのコンサートに乗るわけではない)、「いや、やはり目の前の演奏に集中しているのだ」とも感じたので、その時は別個のこととして考えるようにしていました。


 この解放記念コンサートの演奏は、カセットテープで持っていて、家にあった唯一の(災害時用にとってあった)ラジカセでかけて聴いてみると、ベートーヴェンの7番の冒頭ののびやかで華やかなオーボエの音は、やはりシェレンベルガー以外に考えられない。HMVを検索してみると、DVD付きCDが売られている。これは買うしかない、ということで年末にようやく納品となり、それ以来何度も繰り返し聴いています。


 DVDには途中で「ベルリンの壁」についての歴史についてまとめた短編のドキュメンタリーと、指揮とソリストを務め獅子奮迅の活躍だったダニエル・バレンボイムをはじめ、当時のコンサートマスターのゲラーマンなど、ベルリン・フィルの関係者のインタビューが収録されていて、なんと楽団員代表の一員として若き日のシェレンベルガーさんもインタビューに答えています。

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 この歴史的瞬間での興奮した空気の中で(あと、インタビュアーが、空気の読めない質問をしたこともあって)、冷静沈着なシェレンベルガーさんが、興奮を隠しきれないように早口でインタビューに答えていて、このコンサートの意義と、実現するために楽団メンバーたちも最善を尽くした様子が語られています。もちろん、演奏でもシェレンベルガーさんはオーボエ首席奏者として乗っています。

 後ろには東ベルリンから聴きに来た聴衆(このベルリン・フィルハーモニーは、東西ベルリンの境界近くに位置しており、統一が成った現在では文字通りベルリン市の中心にある)が映っていて、映像で見る東ベルリン市民の服装は着の身着のままのような感じ。壁が崩壊してたった3日後のこのコンサート、様々な混乱の最中での開催で、東ドイツ政府の機構・組織もまだ存在していた時期。つい昨日まで秘密警察が跋扈し、壁を超えようとすると最悪の場合、銃殺されていた時代。聴衆の中には東ドイツ政府に近い立場の人もいただろうし、逆に政府から弾圧される立場に居た人もいたでしょう。
 旧ソ連が崩壊していく過程では、開放路線を推進した当時のゴルバチョフ大統領が拘束されるクーデターが起こっています。当時の東ドイツでもそうした不穏な動きが起こっても不思議ではなかった。
 「もう少し落ち着いてから」という意見も当然に出たはず。しかし、ベルリン・フィルのメンバーは、バレンボイムとともに、この「解放記念コンサート」を開催を目指して東奔西走を続けた。このコンサートの様子が全世界に発信されれば、歴史の反動を抑え、「壁の無い平和なベルリン」の既成事実を固める意味合いもあったはず。


 前半のバレンボイムによるベートーヴェンの1番コンチェルトについての具体的な感想は、また別の機会に書こうと思いますが、前半のソリスト&指揮者としてバレンボイムが登場した場面、そして後半のタクトをもって再びバレンボイムが登場した場面でも、スタンディング・オベーション。そしてその拍手が鳴りやまないのですよ。

 バレンボイムがうなづいて何度も謝意を示しても鳴りやまない。オーケストラに向かって腕を上げてようやく静まりますが、興奮のるつぼともいうべき会場の異様な空気が映像からでも伝わってきます。


 後半のベートーヴェンの7番の演奏、FM放送を録音したテープで聴いているときには、その熱気あふれる演奏にただただ圧倒された感想しかなかったのですが、こうしてDVDで見てみると、ベルリン・フィルのメンバーたちが、こうした尋常ではない会場の空気にのまれることがなく、どっしりと構えた鉄壁の演奏を聴かせてくれます。シェレンベルガーも第1楽章の冒頭では、興奮する聴衆を慰撫するように、優しい人間的な音で聴き手を魅了します。

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 音は、やはりフルトヴェングラー~カラヤン時代の重厚で伝統的なスタイルのアンサンブルで、たいへんに聴き応えがあります。第2楽章の大河的なアプローチは、べルリン・フィルに限らず、現在のオーケストラでは聴けない世界観。


 第3楽章以降は楽団員たちの気分の昂揚が感じられると同時に、まったく崩れないテクニックと多彩な表現、隙の無いアンサンブル、細かいところまで神経の行き届いた演奏に圧倒されます。ベルリン・フィルの圧倒的なレベルを思い知らされます。

 しかし、第4楽章の後半になるとバレンボイムの興奮したタクトに呼応して、彼らも人の子、若干感情が抑えきれないとばかりに音楽が走りだします、しかし大きな乱れはなく怒涛の勢いでフィナーレを迎えます。

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 会場はブラボーが延々と続き、カメラが客席を抜くと、みな晴れやかな笑顔でスタンディングオベーションで歓迎する様子が見て取れます。壁が出来た後、「おらが街のオーケストラ」の一つであったはずの、ベルリン・フィルの演奏を聴けなくなった旧東ベルリン市民の興奮と歓迎がストレートに表れていて、あれから30年近くたった私(当時は中学生だった・・・)もジーンと来てしまいます。


 常に前を向いて前進するマエストロゆえ、岡山フィルとの共演の最中に89年の出来事が去来したわけではないかもしれませんが、彼の音楽家人生に深く刻まれた出来事であることは間違いないわけで、そうした経験と音楽性を持った方が、オーケストラのシェフとして、そのキャリアのすべてを注いでくださっている縁を、本当に貴重なことだと思うのです。

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