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クラシック音楽バー『ココルーム』 大阪市西成区山王 [クラシック全般]

 「店、店主、客層、すべてが超ディープ!!」「三千枚以上のCDとレコード。二百万円のオーディオ装置を常備」
 このチラシの文言に間違いはなかった!
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 コンサートの後、あーと屋さんにご案内いただき、念願のクラシック音楽バー「ココルーム」に行ってきました。
 場所がどこにあるのか詳しくは知らなかったんですけど、動物園前で降りて飛田本通り商店街を南に下る。まあ、ディープにもほどがあるだろう!という立地。私は神戸や宝塚に20年近く住んでいたものの、船場より向こうにはほとんど行くことが無く、行くときも難波や恵美須町ぐらいでしたので、ちょっとドキドキしながら歩いていました。
 店を開けた瞬間、大音量のオーケストラ音楽が鳴り響いています。カウンター席10席とテーブル席が2つ程度。長細いウナギの寝床の店舗の突き当たりには、総額200万円のオーディオが鎮座。
 そして店内もディープ、店には3000枚以上のCDがうずたかく積まれ、クラシック関連本やなぜか心理学や精神分析の本、あるいはコミックで埋め尽くされております。ホンマ、漫画世代、クラシック音楽大好き、オーディオオタクの筆者だったら、何時間でもおれそうです。
 マスターもディープです。クラシックの音源の話題について何でも答えてくれますし、その語り口がマスターの人の良さとクラシック音楽への愛情を感じさせてくれます。
 この日聞いたのは・・・
・ブラームスのピアノ協奏曲第1番、ルドルフ・ケンペ指揮BBC交響楽団 ピアノ独奏:カッチェン
・マーラー 交響曲第6番 ブーレーズ指揮ベルリン・フィル
・ベートーヴェン 交響曲第8番 シェルヘン指揮ルガノ放送交響楽団
 アンコール(?)上記シェルヘンのベートーヴェンから、交響曲第4番の第4楽章
 常連客も超ディープで、『この演奏の録音は、60年代ぐらい?』と聞くと、『65年の録音やね』と即答で返ってくる(笑)
 お店は居心地の良さ、ゆるさは従来の「雑音禁止」の名曲喫茶とは一線を画すもの。でも、オーディオの音はいいんですよ。家の近所にあったら入り浸ってしまうやろなあ。最後は常連さんと店長で、シェルヘンの超高速変態演奏を魚に笑い・語り合いながら終電まで居着いてしまいました。
  
 お店の話題とはズレますが、後から来られた常連さんが「岡山フィルって、シェレンベルガーがシェフやってるんよね」と、ご存じだったのにはびっくりしました。ディープなファンの間では、もう既に知名度があるぞ!岡フィル!関西公演を打つ日も近いか?(笑) 

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日本センチュリー交響楽団第226回定期演奏会 指揮:飯森範親 [コンサート感想]

日本センチュリー交響楽団第226回定期演奏会
ワーグナー/舞台神聖祝典劇「パルジファル」より  聖金曜日の音楽
~休憩~
ブルックナー/交響曲第7番ホ長調(ハース版)
指揮:飯森 範親
コンサートマスター:松浦奈々
2018年6月14日 ザ・シンフォニーホール

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 梅雨とは思えないカラリとした気候の中、ザ・シンフォニーホールの音響と、この気候を味方につけ、センチュリーの極上の美しい響きが印象に残ったコンサートとなった。
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 配置は12型の対向配置。1stVn:12→Vc:8→Va:8→2ndVn10、コントラバス6本は舞台最上段に横一列に並ぶ。ウィーン・フィルが黄金の間でやる配置。また、金管は下手からホルン→トランペット→トロンボーン→ワーグナーチューバ&チューバ。ブルックナーでは、この配置の利点が遺憾なく発揮された。お客さんの入りは8割程度。
 プログラム解説によると、ブルックナーが尊敬するワーグナーの最晩年(1882年)の傑作「パルジファル」からの音楽、それと同時期に書かれたブルックナーの交響曲第7番(1883年)を取り上げる、特に、ブルックナーの7番の第2楽章がワーグナーへの哀悼の意を示した音楽という繋がりがあるようだ。
 ブルックナーに比べると、やはりワーグナーの音楽は隙がなく、冗長さも皆無。ワーグナーの傑出した才能を感じるとともに、一方で不器用で愚直なブルックナーがこの7番で神話の領域までの高みに達したことを感じさせられる、終わってから振り返ると、よく考えられた絶妙のプログラミングだった。
 センチュリーのハイレベルなアンサンブルと高潔な響きは健在。毎度毎度ため息をつきながら感心する。ブルックナーに対する期待も否応なしに高まるというもの。
 そのブルックナーの7番開始前。空席のあった自分の周りの席が埋まり、1500人、3000個の目が舞台上に注がれる視線が見えるような、何とも言えない重苦しい緊張感が客席を包む。やはり大阪はブルックナーの「聖地」だと思う。この雰囲気だけで鳥肌が立つ。
 その会場の緊張感が伝染したのか、第1楽章では硬い演奏だった印象。いや、一つひとつのフレーズを紡いでいく仕事はさすがセンチュリー響と言うべき精緻な仕事だったし、個々のパートは素晴らしい音を奏でいるのだけれど、どこか緊張が解け切れない、波に乗れない感じが残る。
 しかし、第1楽章終盤から響きに輝きが増し、第2楽章は文句なしの演奏。対向配置+ベースを後方に並べる配置によって、ベースと金管の音が絶妙の塩梅でブレンドされ、極上のサウンド響かせた。
 ここで不思議な感覚に襲われたのが、センチュリーの見通しの良い練りこまれたアンサンブルでこの曲を聴くと、ルネサンス以前のレオナンやペロタンらが作曲したオルガヌム音楽のような響きが感じられたこと。いや、これは自分に原因の一端があるかもしれないのが、OTTAVAで流れたことがきっかけで、作業用BGMとしてオルガヌム音楽を聴いているからそう感じるだけかもしれない。しかし、ブルックナーの音楽が描く「神話的」な世界は、こうした中世的な響きにも秘密があるのかな?とも思う。それもこれも、センチュリーのサウンドが極めて純度の高いがゆえ、気付かされたことだろう。ずっと、永遠に聴いていたい。夢のような20分間だった。
 前半2楽章が、テンポは中庸ながら一つ一つのフレーズを紡ぎ出すように丁寧に描いていたのに対し、後半2楽章は、前半よりもテンポを速めに推進力を増して、マッシヴかつ色彩豊かなサウンドで押していく演奏になった。かといって、決して力づくの演奏にはならずダイナミクスが大きくなるにつれ、ハーモニーは研ぎ澄まされ、ブルックナーが見せたかった世界を鮮烈に見せてくれている感覚があった。飯森さんも、楽員さんも音楽に入り込んでいくのが解る。舞台上で泉のようにこんこんと音楽が涌き出でるかのように、音楽が「創り出されて」いく。第3楽章の中間部で、あまりの儚い美しさに涙腺が緩む。
 第4楽章でもオケと指揮者、あるいはパート同士の対話が密になっていく。弦が艶を放ち、金管は輝きを増す(特にラストのタタタタンタン、というブルックナーリズムの部分の神々しさと言ったら!)、ティンパニーは神の啓示のようにホールを震わせ、それら三位一体となったハーモニーに包まれる時間をかみしめるように聴いた。
 1楽章の硬さと、「まだ余力はあるかな~」という印象から、「もう1日、この定期の本番があれば」と思ったが、僕としては十分に満足する演奏だったことは間違いありません。
 それに対して、会場の反応は・・・悪くはなかったです。でも、必死で拍手する私が若干浮き加減な感じで、「もう一息!」という感じの反応だったのがすごく印象に残りました(笑)
 いやいやいや、もし岡山フィルが岡山でこんなブルックナーを演奏したら、客席は熱狂の渦になるだろう。
 私にとっては滅多に聴けない水準の演奏でも、大阪の聴衆にとっては「ん、まずまずやったな」的なものだったのでしょうか。うーん!大阪でブルックナーを演奏するというのは大変なことだなあ。
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 この日、新幹線に飛び乗ろうと岡山駅に行ってみると、人身事故で車両が新幹線が緊急停車しているため、ダイヤが大いに乱れていた。なんでもボンネットが破損したまま100km以上走っていたらしいという・・・。
 『これは、開演までに間に合わないかな?』と思っていたら、すぐに新大阪行きが到着。久しぶりのJR九州の車両で、岡山出身の工業デザイナー水戸岡さんの快適な座席でスムーズに新大阪に着いた。

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山陽放送テレビのドキュメンタリー番組で岡山フィルが取り上げられるようです [岡山フィル]

 近年の岡山フィルの躍進は、クラシック音楽ファンの間にとどまらず、この街のホットな話題の一つになった・・・ということでしょうね。
 6月20日(水) 19:00~19:55
 平日のゴールデンタイムど真ん中の放送です。
 詳細な内容は明かされていませんが、おそらくシェレンベルガーの首席指揮者就任後の楽団改革・演奏能力の向上の軌跡、そして好調な観客動員とそれに伴って行政・財界を中心に「中心市街地活性化の起爆剤」としての期待が高まっている、そんな内容のドキュメンタリーになるのではないでしょうか。
 このブログにコンスタントに訪問いただいている方の6割が岡山県外からのアクセス(アクセス解析による)で、RSK山陽放送の放送エリアは岡山県・香川県ということで、それ以外の地方の方は見ることが出来ないのが残念です。山形交響楽団のドキュメンタリーのように、何らかの賞を受賞したりすれば全国放送されるかもしれません。そのためには、まずは視聴率と反響が高いことが条件になるでしょうね。
 このドキュメンタリーの放送に伴って、
 RSK「4時なま」特集(6月15日(金) 16:00~)と、
 RSK「イブニングニュース」特集(6月20日(水) 18:15~)でも取り上げられるようです。
 これらの放送予定については、岡山フィルから会員あてに郵便で送られてきました。
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 楽団の意気込みを感じますね。これがきっかけに、もっと話題になっていけばいいですね。
※6月13日 追記
 山陽放送の番組HPに内容予告が掲載されました。なるほど、オーケストラの運営を含みつつ、今回は首席奏者オーディションでの人間模様にスポットを当てていく内容のようですね。そうであれば、オーケストラに馴染みが無い視聴者も惹き込まれる番組になると思います。さすがですね。

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岡山フィル第56回定期演奏会 Vn:福田廉之介 シェレンベルガー指揮 [コンサート感想]

岡山フィルハーモニック管弦楽団第56回定期演奏会
グリンカ/歌劇「ルスランとリュドミラ」序曲
チャイコフスキー/ヴァイオリン協奏曲ニ長調
 ~ 休 憩 ~
チャイコフスキー/交響曲第5番ホ短調 
指揮:ハンスイェルク・シェレンベルガー
ヴァイオリン独奏:福田廉之介
コンサートマスター:高畑壮平
2018年5月27日 岡山シンフォニーホール
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 前半も後半も「凄い演奏を聴いた」という充実感に満たされたコンサートだった。
 まずは、何といっても福田廉之介さんのヴァイオリンを取り上げずには居られない。去年聴いたリサイタルで「もうこれは、世界中どこへ行ってもプロとしてお金を取れる水準は充分にクリアしている」と瞠目したのだが、そこからさらに深化していた。
 その発せられる音には、選ばれし者しか得られないオーラと『華』がある。第1楽章の転調しながら上昇を繰り返す場面で、オーケストラが様々な楽器で和音で色彩を出していくならば、彼はたった一挺でまばゆいばかりの世界を、オーケストラとともに創ってしまう。
 テクニックは言うまでもない、その色彩・表現力、これが葦原の瑞穂の中つ国、吉備の国から生まれた才能だ!と快哉を叫びたい、とでもいうように地元の会場は沸騰する。新しい首席奏者(候補)たちが奏でる切ない曲想に導かれて第2楽章で見せた内省的な音楽は、10代の青年とは思えない滋味沁みわたる世界だった。
 第3楽章ではテクニック以上に、オーケストラへつけていくセンスが光っていた。岡山フィルもシェレンベルガーがタクトで示す細かいニュアンスやダイナミクスをソリストと共に表現していく。
 演奏終了後は万雷の拍手が鳴りやまない。アンコールはパガニーニのカプリス。福田さんもあのチャイコフスキーのコンチェルトの最終楽章で力を振り絞るような演奏を聴かせてくれながら、涼しい顔をしてパガニーニを弾いてしまう。
 このブログを見ていただいている方には、岡山以外の方も多くいらっしゃると思うのですが、福田廉之介という名前を憶えて損はありません。必ず世界のクラシック音楽ファンなら知らぬ者はいない名前になるでしょう。
 感想は1曲目とメインに移ります。この日の入りは9割ぐらいだろうか。3階には空席が少しあったようですが、1階~2階席は見渡す限り満席だった。岡山フィルの定期演奏会、ずっと好調な集客を維持している。
 編成は座席的にヴァイオリンが見切があるので正確ではないのですが、12型でVa以下2本補強のストコフスキー配置2管編成だったでしょうか?
 今回はオーディションで合格した首席奏者たちの試用期間としてのコンサートでもあったが、どのパートもこの上ない演奏を聴かせてくれ、ソロ演奏の多いチャイコフスキーの5番で、もうこれはほとんど首席奏者披露演奏会といってもいい、華やかな演奏になった。
 グリンカの序曲からエンジン全開。岡山フィル、本当に良く鳴っています。この岡山シンフォニーホールは3月~梅雨入り前の季節までが、最もいい音が鳴るのだ。
 シェレンベルガーさんと通訳兼司会進行役の高畑コンマスとのプレトークで、『チャイコフスキーの交響曲第5番はよく演奏される曲で、ついついルーティンで演奏してしまう曲でもあるのだが、今回は楽譜を見直して、作曲家の狙いや意図をくみ取った演奏になる。新鮮な気持ちで聴いてほしい』というような内容でした。
 たしかに、今日のような王道中の王道の曲は。それだけに実は本当に難しいのだろう。それは聴衆の立場から見てもそうだ。最近の演奏ではヤンソンス&バイオルン放送交響楽団の倉敷公演の演奏が忘れられない。それは僕にとっては生涯聴いたベストコンサートの一つになっているほどだ。聴衆は地元での生演奏だけでかなりの好演を経験しているし、それだけに期待値は上がる半面、期待を裏切られた場合の落胆も大きい。
 しかしシェレンベルガーさんの言葉には嘘偽りは無かった。第1楽章はきっちりと音符を積み上げていくような演奏。この曲の動機となるメロディーを、ドイツロマン派の交響曲のようにソナタ形式の枠を手掛かりに積み上げていく。
 特に弦のボウイングの幾何学的な統一感は見事で、書道で言えば、うったてから止め・はね・はらいまできっちりしている楷書体の墨書を見るような、あるいは発音の良いアナウンサーによるナレーションを聴いているような、「ああ、シェレンベルガーさんらしいな」と思いながら聴いていた。第1楽章のラストはスパッと切る解釈に痺れた。高畑コンマスの存在は、やはり偉大だ。
 
 しかし、単に「ドイツ的・構築的なチャイコフスキー」ではなかった。第1楽章や第4楽章での管・打を中心
に短いリズムを打ち込むトウッティでは、音尻をスパッと切ることで、ストロボが光るような切れ味を出していて、このホールで聴いたサンクトペテルブルグ・フィルの演奏の切れ味を思い出した。
 第2楽章では、感情におぼれ過ぎず、しかしメロディーは大いに歌わせるドラマティックな展開を見せ、金管が奏でる、この曲の「運命の動機」では人間が抗いがたい大いなる力を誇示するように、強烈な音を客席に打ち込んでくる。
 第3楽章も、運命から解放された踊りの中に、不気味にカーテンの陰から「運命の動機」が顔をのぞかせる
不気味な雰囲気がある。
 第4楽章の激しさはどうだ!岡山フィルがこれほど荒々しくなるオーケストラなのか?一方で、金管が裏手に
回っているときの力強くも弦楽器の癒されるようなしっとりとした音にも聴き惚れる。チャイコフスキーの一種病的な世界を描き出していた。
 最後のコーダに入った後の耳をつんざくような金管の打ち込みは、古典派から前期ロマン派で見せるバランス重視のシェレンベルガーとは全く異なるように感じる。第1楽章でドイツ的構築感を感じ取った僕は、この楽章ではロシアのオーケストラのようなパワーにひれ伏すしかなかった。
 所詮、運命には逆らえない人間が刹那の時間に心を預けて踊りに踊るような・・・一種「強制された歓喜」のような荒々しい面を見せながら、最後を迎える。私には、この日の演奏は単なる勝利の凱歌には聴こえなかった。ただ・・ただ・・凄い演奏だった。
 特筆すべきは、ソロを取った各パートの首席奏者たちの見事な演奏。冒頭のクラリネットでの陰影、ファゴッ
トの哀愁。そして第2楽章のソロホルンの柔らかさと、それに答えるオーボエは、ロメオとジュリエットのようだ。第4楽章のトランペットのファンファーレは、運命へ抗うことを諦めさせられる充分な力感が備わっていた。
 それから、コントラバス・チェロのきっちりとした力強いボウイングは、これまでの岡山フィルの音にさらに力強さを加えるものだったし、ヴィオラの分厚さが無ければ、この「躁鬱的」な交響曲の魅力は半減しただろう。
 この岡山フィルの首席奏者というポスト、ファンの私がこんなことを書くのもなんですが、決して待遇がいいわけではないと思われるのですが、それでもこれだけの人材が集まって、これほどの粉骨砕身の演奏を聴かせてくれたことに感謝。早いですが、これからどうかよろしくお願いします。岡山を好きになってください。
 次回の定期演奏会での首席奏者正式就任が本当に楽しみになりました。
※追記
 某SNSに書き込んでいるときに思ったのだけれど、僕にとってチャイコフスキーの音楽はロマンティックで情熱的なイメージでとらえていたのだが、ドイツに生まれ、長くドイツの中心で活躍してきたシェレンベルガーが見るロシアへのまなざしは、フランスのブルボン王朝を模して創られたロマノフ王朝の貴族文化という面と、凍てつくロシアの大地のバーバリアニズムとが同居する存在なのかもしれない。そして、この日の演奏の美しさと激しさはそうしたロシアの持つ両面が強いコントラストで描かれたのかもしれない、そんなことを考えました。

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ばらのまち福山国際音楽祭2018 ローズコンサート [コンサート感想]

ばらのまち福山国際音楽祭2018
ローズコンサート
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2018年5月3日 福山リーデンローズ大ホール
 なかなか更新がままなりません。今年度はこんな感じで事後更新が多くなりそうです。数日たってしまうと同じコンサートに行かれた方のアクセスが一気に減りますから、感想を共有しあう・・・なんてことはできませんねえ。もうこれは自分のためだけの更新になりますね。
 ポーランド放送室内合奏団は、その名の通り弦楽のみの合奏団で、基本編成は1stVn6-2ndVn6-Va5-Vc3-Cb1という小規模編成。
 音はいぶし銀の音、東欧のオーケストラが持っている独特のコクと艶のある音で、遠路ポーランドからこの音楽祭のために来てくださっただけのものを味あわせてくれた。モーツァルトでは昨今のピリオド・アプローチを取り入れた演奏だったが、ヴィヴラートをかけて浪漫的に表現したチャイコフスキーの弦楽セレナードで聴かせた濃厚な音こそが、この合奏団の真骨頂のように思える。
 今回、もっとも聴きどころだったのはキラルの「オラーヴァ」だった。ロマの音楽を思わせる民族調の旋律がミニマル・ミュージックのように折り重なって、徐々に音楽世界が拡張して最高潮に達するこの曲。ペンデレツキ、ルトスワフスキ、キラル・・・ポーランドは20世紀のクラシック作曲家と傑作を多数輩出した国として歴史に残ると思う。演奏する彼らも、この作品を知ってほしいという情熱にあふれていた。
 チャイコフスキーの弦楽セレナーデもスラヴのリズム溢れる躍動感のある表現で、これは国内のオーケストラを聴いていてもなかなか味わえないと思った。
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 会場は8割ぐらいの入りだったか?過去、リーデンローズでクラシック音楽を聴いた中で最も客席が埋まっていたように思う。1日目のオープニングコンサートでは客席も6割ぐらいで盛り上がりに欠ける感じがあったが、私のようにコンサートを『はしご』してテンションが上がっていく聴衆が多く、このローズコンサートでは会場はたいへんな熱気に包まれていた。この「ラ・フォル・ジュルネ」型(あるいは「大阪クラシック型」)の音楽祭は、本当によくできているなあと感じた。近くのショッピングセンターでの地元音楽家の演奏にも大きな人だかりができており、2日目(最終日)には行っていないが、この音楽祭は成功だったんじゃないだろうか。
 一つ要望を上げるとすれば、岡山でこの音楽祭の情報がほとんど入ってこないことと(岡山シンフォニーホールでチラシを配るだけでも地名度は断然上がるだろう)、実際には空席が多かったのに、ローソンチケット、岡山市民会館、アルスくらしきなど、岡山でアクセスできるプレイガイドでは完売だったこと(私はチケットぴあで購入した)。広島のTVやホールなどでは充分な宣伝がされていたようですが、快速に乗ると45分で行ける岡山からの集客を考えないと勿体ないと思います。この音楽祭の性格上も、広響のコンサートをはじめコンテンツの充実している広島から来る客よりも、同じ文化圏・生活圏の岡山・倉敷をターゲットにした方が有効でしょう。
 そして、気になるのが音楽祭の今後。ラ・フォル・ジュルネが同じような仕組みでの音楽祭なので参考に、地方都市開催の経過を見てみると、金沢・びわ湖が東京中心のプログラミングとブッキングに反発して(乱暴に言えば「東京の残り物を押し付けられるより、自分たちで主催した方がよい」ということだろうか)、独自の音楽祭を立ち上げて成功している一方で、新潟・鳥栖では音楽祭そのものが消滅しています。
 地元のオーケストラや劇場が活発な活動をしていて聴衆層の土壌が厚い金沢・びわ湖に対して、新潟・鳥栖は音楽祭を続けるメリットが見いだせなかった。
 福山も音楽祭を継続していくためには、音楽祭によって地元に還元され、還流する財産(当ブログの言葉でいえば、文化・芸術が循環する社会に貢献するかどうか?)があることが、不可欠になってきます。この音楽祭でも地元アマオケを結集した「オーケストラの祭典」や、街中コンサートなどで地元の音楽家に活躍の場が与えられてはいたものの、誰がアマチュアで誰がプロフェッショナルなのか解りにくく、混在している印象がありました。
 今後は、地元のプロの音楽家の存在がもっと前面に出る様な構成が必要でしょうし、例えば弦楽四重奏団など様々なプロの室内楽団体が発足したり、プロの音楽家で構成された室内管弦楽団などが出て来て、音楽祭のプログラムの一翼を担うようになれば理想的でしょう。逆に、そうならなければこの音楽祭の存在意義が問われ、新潟や鳥栖と同じ道を辿る可能性が高いと私は思います。

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ばらのまち福山国際音楽祭2018 シン・ヒョンス リサイタル [コンサート感想]

ばらのまち福山国際音楽祭2018
シン・ヒョンス ヴァイオリン・リサイタル
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2018年5月3日 福山リーデンローズ小ホール
 もう音楽祭は終わってしまいましたが、感想はぼちぼち更新します。
 3月から多忙な時期が続き、それ以上に想定していなかった大きな爆弾が2,3発爆発してしまい、なんというか精魂尽き果てる様な日々でした。郷古廉さんのリサイタルなど、注目の公演を3つほどパスしてしまい(でも代休を3日も貯金していますから、6~7月で取り返すつもりですが、何か?)、この音楽祭は久しぶりに生の音楽に触れられ、それも3公演も梯子ということで僕にとってはこれほどの至福の時間はありませんでした。
 さて、シン・ヒョンスさんのリサイタル。予定時間は約50分間のうち、あのグリーグのロマンティックかつ体が躍るソナタの3番が聴けるということで、軽い気持ちで座席に着席。
 ところが、バッハのシャコンヌの演奏が始まったとたん、その予想外というかまさかの本気度100%、出力マックスの演奏にノックアウトされてしまった。
 本当に本当に、パルティータ2番全曲が聴けなかったのが惜しいぐらいの濃密な演奏。ロン・ティボーの覇者というタイトルを語るまでもない、恐ろしいほどのテクニックで、収まるところに音が収まっていく快感、バッハの厳しい音楽を完全にモノにしている懐の深さ、ヒョンスさんのリサイタルがあったら絶対に行こう、と心に期したのでありました。
 近くで見ると、細身ながら恵まれた身長を生かしてダイナミックな演奏。そのパワフルさは欧米のヴァイオリニスト顔負け、音の伸びの良さも素晴らしい。
 2曲目のグリーグのヴァイオリン・ソナタはグリーグらしい抒情と民族的な旋律に溢れたヴァイオリン・ソナタのロマンティック部門の屈指の存在。ある意味、1曲目のバッハのシャコンヌとは対極にある曲と言える。僕は、この曲を聴くたびに「グリーグはなぜ、ヴァイオリン協奏曲を作らなかったのだろうか」と思うのだが、最近、ヴァイオリン協奏曲編曲版(グラッケルードとルンド編曲)をグラケルードのソロ、トロムソ室内管で聴くことが出来る(NAXOS)。ナクソス・ミュージック・ライブラリーに加入の方は一度聴いてみてほしい。
 閑話休題
 グリーグのソナタも、極めてハイカロリーで情熱的な演奏。低温は足元から響くような重量感があると同時に、高温の伸びの良さは聴いていて本当に気持ちがいい。音の純度が極めて高く、この曲の第2楽章の美しさがヒョンスさんのヴァイオリンにかかって、際立っていた。
 50分という通常は半分のサイズのリサイタルを逆手に取ったのか、完全燃焼のように見えた。いやいや、2時間の本格的なリサイタルもこの集中力と情熱で走り切ってしまうのかもしれない。
 伴奏はメディアでの露出も高い斎藤雅広さん。オープニング公演とマタニティコンサートでの司会につづいて、休みなしで伴奏に臨んだが、ソリストにドンピシャでつけていく演奏は流石、徹底的にシン・ヒョンスさんの良さを引き出す伴奏にうなった。「この音楽祭はこの斎藤さんで持っている」と思う。
 アンコールはハンガリー舞曲第3番。
 なお、シン・ヒョンスさんは、この後「いしかわ金沢 風と緑の都音楽祭」への出演のため、福山を後にしたそうだ。本当にタフなことです。

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ばらのまち福山国際音楽祭2018 ユネスコ「世界の記憶」記念コンサート [コンサート感想]

ばらのまち福山国際音楽祭2018 開会セレモニー
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ユネスコ「世界の記憶」記念コンサート
~ふくやま琴との共演~
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2018年5月3日 福山リーデンローズ大ホール
 今年から「ばらのまち福山国際音楽祭」が福山リーデンローズ(福山芸術文化ホール)を中心とする福山市内各所で行われている。
 この音楽祭のフォーマットは明らかに「ラ・フォル・ジュルネ」であり、はたまた「威風堂々クラシック」だろうと思う。
 有料公演を45分から1時間程度で1000円~3000円という安価で提供し、福山リーデンローズの大ホールと小ホールで時間差で開催、聴衆は1回のコンサートだけつまみ食いをしてもいいし、自分の気に入ったコンサートを何公演も梯子してもいい。市内各所(福山城、美術館、ショッピングセンターなど)ではアマチュアや音楽大学の学生さんらによるコンサートが各所でゲリラ的に行われ、聴衆はコンサートを求めてそぞろ歩く仕掛けになっている。
 このオープニングコンサートのオーケストラはスーヨル・チョイ指揮、釜山フィルハーモニー交響楽団が務めた。韓国のオーケストラが進境著しいことは、FM放送で聴いたソウル・フィルやKBS響の演奏から知っていた。しかし、花のソウルを離れた地方都市のオーケストラの実力はいかに?という心配もあった。
 ところが釜山フィルの演奏は驚くほどレベルの高かった。釜山フィルが招聘されたのは、朝鮮通信使の停泊場所だった鞆の浦港を観光地として抱える福山市が、その通信使の出発港の釜山のオーケストラを招聘して交流を深める意図があったようですが、このオーケストラ、僕が普段聴いている西日本のオーケストラと比べてもまったく遜色は無い素晴らしい演奏を披露押してくれた。京響やセンチュリーなどの一線級の実力のあるオーケストラと比べると、緻密さや洗練さでは聴き劣るものの、彼らの全身で音楽を表現する様子は、関西フィルや広響といった躍動感を前面に出した西日本のオーケストラを聴いている自分にとっては親近感がわく。
 12型(協奏曲は8型)での演奏だったこともあって、弦楽器がやや非力な感じはあったが、金管は極めてパワフル、そして木管楽器のよく歌う事歌う事(笑)楽器の歌いっぷりはイタリアやスペインのオーケストラのようだ。
(会場では朝鮮通信使にちなんだパネル展や衣装展示が開催されていた)
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 現在、韓国ナンバーワンといってよい女流ヴァイオリニストのシン・ヒョンスさんがソロの小曲を2曲。特にツィゴイネルワイゼンの超絶技巧が、このヴィルトゥオーゾの手にかかれば、いとも簡単に弾けてしまうように感じてしまう。それほど圧倒的なテクニックを披露してくれた。釜山フィルのメンバーも足をドンドンさせてソリストを称えていた。「どうだ、我らが韓国が誇るヴィルトゥオーゾは凄いだろ?」と、彼らまでもが誇らしげだった。シン・ヒョンスさんの凄さはこのあと、小ホールで行われたソロ・コンサートで存分に堪能した(感想はのちほど)。
 最後の行進曲「威風堂々」は、市民合唱団も参加してのステージ。スーヨル・チョイさんのタクトに導かれ、なんとも歯切れのいい、胸のすくような演奏になった。隣国の音楽祭の御座敷公演でここまでの演奏ができるのだから、本拠地での演奏はさぞかし凄かろうな・・・。 

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岡山大学鹿田キャンパスの「Jホール」での室内楽の新シリーズ企画 [コンサート情報]

 岡山大学の鹿田キャンパスに、5年前に突如現れた最先端の現代建築による多目的ホールのJホール(正式名称は、寄付者の福武純子氏の名前を取って、『Junko Fukutake Hall』)で、竣工直後から岡山シンフォニーホールが主催するレインボーコンサートが月1回のペースで開催されています。
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 シェレンベルガーによるオーボエ演奏は、レインボーコンサートの毎年の恒例行事となり、岡山フィルの団員による室内楽演奏や、新イタリア合奏団、デジュ・ラーンキ、グリミネッリが登場するなど、世界トップレベルのアーティストが登場する、そんじょそこらの地方の公共ホールを軽く凌駕するプログラムが組まれ、500円~2000円という信じられない価格で聴くことが出来ます。
 ただ、開催されるのが平日の14時から、というのが唯一の突っ込みどころではありますが・・・幸い、今の私の仕事がシフト勤務なので、年に3~4回は聴くことが出来ています。
 今回のエントリーは、このレインボーコンサートのことではなくて、3月ごろから始まったらしい・・・新シリーズのコンサート(シリーズ、といっていいのかしらん)。
 「音楽療法研究会」、という、素人の聴衆を寄せ付けない(笑)ネーミングのコンサートですが、4月に「アンサンブル・フィノ」という、岡山フィルの団員さんを中心としたアンサンブルのコンサートを開催、そして5月30日には、なんと、ウィーン・フィル首席フルート奏者のカール=ハインツ・シュッツらが登場します。
 「研究会」という名前ですが、フツーに岡山シンフォニーホールでチケット売っています。しかも2500円です。
 この豪華新シリーズ、今後も続いていくのだとしたら凄いですな。月2回ペースでの豪華メンバーによるコンサートが聴ける・・・、大学キャンパスの中の多目的ホールとしての枠を超えております。冗談抜きで、中四国地方のあらゆるホールの中でも最も充実したラインナップだと思いますよ。
 レインボーコンサートは、岡山大学と連携協定を結んだシンフォニーホールが主催しているコンサートですが、この「音楽療法研究会」のコンサートは、大学と大学の同窓会・医師会が主導で開催しているらしく、シンフォニーホールがそのノウハウやアーティストの招聘などで協力しているような感じみたいですね。
 地方のクラシック・コンサートの客層は、昔から「師業」と「士業」の方が多いと言われてきました。前者は医師・教師(大学教授や学校の教員)、後者は弁護士や司法書士などの資格士族。
 とりわけ岡山では、プロ・アマ問わず、医師の方が多いように思います。岡山のクラシック音楽界の屋台骨のひとつは医者が支えていると言って過言ではないでしょう。
 その医師の総本山でのホールを上手くマーケティングした岡山シンフォニーホールもうまくやったと思いますし、「セレンデピティを生み出す場(寄付者の福武純子さんのことば)」を提供した寄付者の方と、それを維持している岡山大学を、我が母校ながら誇らしく思います(鹿田と津島は別の大学やー、なんて言わないでー)。

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国内オーケストラ業界と岡山フィル発展への研究(その6:岡山を文化デフレ社会から、文化芸術資本が循環する社会へ) [岡山フィル]

 これまでのエントリーは、できるだけ先入観を排して、データを読み解くことを重視してきました。今回の記事は、大部分が筆者の主観によるものであることを、はじめに断っておきます。
 今回からいよいよオーケストラは育むための、岡山という街の『土壌』について考えていきたいと思います。
地方都市でオーケストラが生き残っていくためには、色々な政策的テクニック論があると思いますが、このシリーズを打っていて、「これはどうしても述べておきたい」と思うに至ったことを今回は触れていこうと思っています。

 これまでのエントリーで、オーケストラが「独立採算」で存立可能なのは莫大な「富の集積」がある東京圏のみ。地方においてオーケストラを維持するためには多額の「安定財源」が必要で、その多くが自治体による公的資金、それにプラスして地元財界を中心とした民間の資金援助が必須であることを述べた。つまりはその街の「総合力」が試されるわけで、岡山フィルの今後を考えるということは、その本拠を置く岡山という街そのものについて考えることにも繋がっていく。

 今回のエントリーのキーワードは、「文化資本デフレ社会」からの脱却と「文化・芸術資本が循環する社会」へ。


芸術家が集まらない街:岡山


 岡山市の文化芸術振興ビジョンによると、市の全就業者数に占める芸術家の割合は、全国平均の0.63%を下回る0.53%で、全国平均を下回り政令指定都市としてはかなりさみしい数字(下位グループに位置)であり、文化芸術のマンパワーが決定的に不足している状況が見て取れる。

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「岡山市文化振興ヴィジョン H29~33」より
 岡山で芸術家の割合が低迷しているのはなぜか?芸術作品に対する需要の不足、芸術家を支えるマネジメントや人的ネットワークの不足など、様々な問題点が指摘されているが、私がこの街で四半世紀近く生活してきたうえで「これでは芸術家やクリエイターが育たない」と感じるはっきりとした原因があると思っている。それは芸術家やクリエイターの仕事に対する正当な対価が払われる文化・土壌が少ない、あるいはそうした意識が弱い、『文化資本デフレ社会』であるということだ。

文化資本デフレ社会:岡山の問題点

 この『文化資本デフレ社会』は、岡山に限ったことではなく、地方都市の大部分が抱えている現象だと思う。
 岡山を含む多くの地方都市と、大都市・文化都市と言われる街との大きな違いは、人の手が入ったクオリティの高い仕事への対価に対する態度の違いである。大都市・文化都市には値段が高いものに対して、どれだけの技術や優れたデザインが盛り込まれているか?それを推し量る審美眼を持った人が多く、本当にいいものなら少々高くても売れていく。
 しかし岡山も含めた地方の中小都市の現状を見ると、例えば「パンフレット作成」という仕事一つ取ってみても、すぐれた技術力・企画力やデザイン力がある会社よりも、「安かろう悪かろう」の会社の方が売り上げを伸ばす傾向が強い。デザインの差が圧倒的でも、両者に価格差があれば、たとえそれが技術力・クオリティの高さに起因する価格差であるとしても、かなりの割合で「安かろう悪かろう」の方が岡山では選ばれてしまう。
 ただし、例外がある、それは「東京で話題になっている・流行っている」モノ・サービスや、東京から派遣されたプロモーターが手掛けるイベントに関しては、少々高くても売れることだ。地元のクリエイター達が渾身に作り込んだものが売れず、地元経済がデフレ化する一方で、東京資本のモノやサービスは活発な取引がある。結果、売上金はどんどん東京へ流出する。

文化デフレ社会=悪貨が良貨を駆逐する社会の犯人

 岡山が本気で「芸術・文化都市」を目指し、「岡山」のブランディングを向上しようと思っているのなら(岡山の「ブランド向上のために」、文化・芸術に力を入れる、という考え方は飛躍があるのだが、それにつてはのちほど・・・)、この「悪貨が良貨を駆逐する」ような土壌・文化については議論されるべきだろうと思う。

 しかし文化資本デフレを助長する、「悪貨が良貨を駆逐する」ような傾向は岡山市や岡山県など公共セクターが発注する仕事にも顕著に見られる。見られるどころか、これらの地元の公共セクターこそが競って「価格」重視で買い叩き、「文化資本デフレ社会」へ邁進しているように思えるのである。
 単価が数%高いだけで、優れたデザインや企画が生き残れず、安かろう悪かろうが生き残っていくこの街で、クリエイターたちが生活していくのは至難の業だと思う。

 そして、もっと深刻なのは、公共セクターが脆弱な財政基盤を理由に、芸術や文化への予算を「ケチり」、芸術家やクリエイター達への報酬や対価を買い叩いていることだ。筆者は実際にそうした現場を多く目にしてきた。彼らの度し難いところは、そうした芸術・文化に対する「値切り」行為を恥ずかしげもなく堂々と「成果」として誇ってすらいるように見えることだ。

 そうした公共セクターだが、東京資本の文化マネジメント組織や代理店に対しては、あっさりと財布の口を開いてしまう。田舎者根性が染みついている(失礼!)彼らは、東京の洗練された業界人たちに手玉に取るように操られ、莫大な資金をかっさらわれてしまう。私は岡山に住んで長いが、メンタリティの奥底には関西人としての東京への反骨精神があるので、「東京がなんぼのもんじゃ」とルサンチマンの塊のように奮闘しようと息巻いているのであるが(こういうメンタリティもどうかと思うが・・・)、『東京では話題になってるんですよ』という殺し文句に弱い公共セクターのゆがんだメンタリティを見ると、こちらまで力が抜けてしまうのだ。

そのモノが持つ価値は、「東京で話題になっていること」ではない

 岡山という街にクリエイター・芸術家が集まり、彼らの創作活動や演奏活動が街の活力となっていくためには、まずは「技術と芸の粋を集めた作品・演奏」に対して、きちんと価値を評価し、身銭を切ってそれらを手に入れる、体験する、という文化が育つことが必要不可欠だと思う。
 一人一人が審美眼を磨いていくこと無しに、「東京では話題になっているから」ではなく、岡山の土壌から良質なモノが続々と生まれ、芸術家が集まる街になることは決してないだろうと思う。

 岡山フィルについて言うと、例えば、スクールコンサートのギャランティとして県や市から出ているお金は正当な価格なのか?現在でも岡山フィルの演奏技術は向上しているし、首席奏者が整備されれば演奏水準も上がる。当然、出演料も値上げされるべきだろう。しかし、市や県は演奏報酬の値上げにはそうそうは応じまい。必ず「同じ曲で同じ時間を演奏しているのに、なぜ値段を上げる必要があるのですか?」、そういう発想に支配される。東京のプロモーターからの「東京ではこれぐらいの価値が認められているんです」という殺し文句とともに高額の提示をされても、鵜呑みにしてしまうのにも関わらず、である。そういった公共セクターの判断一つ一つが積み重なり、それが民間にも波及して、岡山にクリエイター・芸術家が集まらない街になっていく、という悪循環に陥っているのではないか?

 話は逸れるが、京都に「門掃き」という習慣がある。早朝に自分の家や店の前の道を掃除する習慣のことだが、この門掃きに使われる箒を専門に売っている店が存在する。1本1万円近い箒がコンスタントに売れていくそうだ。京都の人は本心を隠して「ホームセンターで売ってる安物の箒なんか、恥ずかしくて門掃きに使われへんわ」と理由を述べるのだが、本当のところは、やはり値段の高い箒は長持ちで掃き心地もが良く、塵が飛び跳ねにくいなど、機能面でも優れている。朝一番に行う仕事を気持ちよく行うために「1万円は払うても惜しない」、それが京都の人々の本心なのだろうと思う。
 京都には、こうした専門店が何百年と続いている。扇子専門店から月見の時期だけに使う三方の専門店、茶筒の専門店なんて言うのもある。京都の骨董屋の目利きも日本一だと聞く。モノの価値を見る目を大事にし、ややもすればそうした素養の無い人は軽蔑さえ受けてしまう。そんな京都は、文化資本デフレとは無縁の街に見える。 
  

『「岡山都市ブランド」を育てるために、オーケストラを育てる、という発想への違和感

 岡山市の様々なビジョンにかかれている。「岡山の都市ブランド向上のために」オーケストラを育てるという発想
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「岡山市文化振興ヴィジョン H29~33版」より
 以前には無い発想であったから、私は一定の評価はをしたのだが、よくよく考えてみるとこの発想には、どうしても違和感が付きまとう。その違和感は「異性にモテたいから流行の服を買う」という発想に通じる違和感。その間に数段階飛ばしている大事なものがあるのでは?都市ブランドの向上って、そんなに簡単なもの?
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「岡山市文化振興ヴィジョン H29~33版」より
 この図を見てみると、違和感の正体がはっきりする。岡山市は文化芸術が「岡山が人を惹きつける 多様な価値を提供」し、すぐに「都市のイメージアップ」につながると考えているようだ。そんなに簡単なわけはない。    
 文化・芸術が都市のイメージアプに貢献するためには、文化・芸術に関する行政・市民の地道な努力と、大胆な「投資」があって、(シェレンベルガーのような)プロのアーティストを呼び込み、例えば音楽では、岡山フィルが全国でも評価されるような楽団になり、しかし、そのためには街の人々が一流の芸術へアクセスし、人々もそれに対して対価を払う土壌ができ、文化資本が循環する社会になって、「新たな価値を創造」し「多様な芸術家などの人材が集ま」って、その結果、もしかしたら都市のイメージがアップする、かもしれない。実際には、途方もないプロセスを間に挟んでこそ起こることだろう。
 この表からは、単に「岡山フィル」というオーケストラが、現状のままでも都市のイメージアップにつながっていくような短絡的な発想をしているように感じる。現在、岡山という街が陥っている「文化資本デフレ社会」に対する現状認識すらないのだ。
 岡山という街がオーケストラを抱えることによって得られる、真の意味とは何なのか?という問いとしては、違和感を感じざるをえないのです。

 オーケストラは、お金がかかる。楽器演奏と音楽表現に文字通り人生を賭けた50名もの職人集団である。お金がかかるのは当然。岡山が「文化資本デフレ社会」から脱却するために、岡山の人々の価値観を転換し、最高レベルの技と芸術性に対し、正当な対価を払うという豊かな文化都市へ舵を切りなおすために、オーケストラを育てるという「敢えて困難な事業に立ち向かう」ことに意義があるのだと思う。

 オーケストラがあることによる数値的な効果の分析は、次々回のエントリーに譲るとして、その機能面での利点は、社会・文化資本としてとても優れた機能を有することだと思う。オーケストラとしての再現芸術を市民に聴く機会を与え、シェレンベルガーのような「本物」の芸術を持った人々との交流の機会を与えることが出来る。個々の奏者もプロの音楽家として、ソリストから室内楽まで様々な需要に対応した音楽演奏を提供でき、指導者として子供の音楽体験を導くことも出来る。オペラやミュージカル、バレエ、演劇、映画に至るまで、生演奏で伴奏を行うことも出来る。今後はジャズやポピュラー音楽のアーティストとの共演も増えていくだろう。このように、オーケストラは万能の文化インフラなのだ。
 岡山市内に限らず、学校や病院、福祉施設にも出向いていける機動性もあるし、大阪や東京、あるいは海外に出て岡山のアピールのための演奏旅行に行くことも出来る。
 社会文化資本としてのオーケストラの役割は、今後、いっそう重要性を増してくる。オーケストラの「場」を作ることが出来る機能は、人口減少社会の行きつく先の「コミュニティの再編」局面での重要な役割を果たすだろう。


「本物」の体験は、自然体験だけでは足りない

 これは平田オリザさんの主張されていることのなのだが、文化資本、とりわけ「値打ちがあるものかどうか」を見分けるセンスや立ち居振る舞いなどの文化資本は、おおよそ20歳ぐらいまでに決定されるそうだ。子供のころの読書体験が言語的資本を培っていくのと同じように、この文化資本を培うためには、「本物」に多く触れていく、これ以外に方法は無い。「本物」に多く触れることで、偽物を直感的に見分ける能力が育ち、国際社会に出ていった時の自分自身のアイデンティティの確立にも資する。東京や関西圏など大都市には本物の文化資本に触れる機会が多く、岡山のような地方都市の子供たちは圧倒的に不利な状況に置かれている。

 『いやいや、岡山には自然がある。自然の中でも「本物」の体験ができる』という意見があるかも知れない。確かに、自然の中でも体験も、「本物の体験」だろう、そこに異論の余地はない。しかい、関西で生まれ育ってきた私が断言するのは、都市部でも「本物の自然体験」は豊富に出来るということだ。都市部では鉄道などの公共交通が発達しているので、例えば私の実家があるところは渓流遊びや滝遊びができるようなところ(六甲山系)だったが、休日には関西一円からそうした自然を求めて集まって来ていた。私の家から神戸や大阪への通勤時間は1時間を切っていたから、昼間は渓流遊びをしているガキが、夜には劇団四季を見たり、大フィルのコンサートに行ったり、ということが日常的に出来る(実際は、そんなに頻繁には連れて行ってもらっていないが、関西に住んでいたからこそ「生」の様々な舞台芸術を体験できたことは事実だ)。
 もちろん都心部在住では本物の自然体験は量的には少なくなるかもしれないが、交通機関が発達した都市圏の住民は、岡山の人々よりもアクティブなのは間違いないと思う。関西だと姫路から琵琶湖まで身近なレジャーを楽しめる、「明日は琵琶湖に行こうか?姫路城に行こうか?」という行動範囲なのだ。
 閑話休題
 こうした地方都市の子供にとって不利な状況は、オーケストラという窓口を持てば、19世紀以来の近代芸術最高の再現芸術にアクセスする手段を保有し、シェレンベルガーに代表される世界的な「本物」のアーティストと音楽を通じての会話体験によって、「本物」のシャワーを子供たちに浴びせることも可能だ。


プロの技を披露する人、プロを目指す人、聴く人見る人、応援する人、それらが岡山という地域の中で循環する社会

 私も含めた働き盛り世代は本当に忙しい。少ない余暇時間も、仕事のためのスキルアップのために費やされ、美術館に行ったりオーケストラをはじめとする舞台芸術を観たり、プロスポーツの観戦にいったりする時間が取れない。そんな人がほとんどではないだろうか?
 そして、岡山は都市としての吸引力が弱く、中心市街地で働いている人口が少ない。クラシックのコンサートでは土日はそこそこ観客が入るのに、平日の18:30開演のコンサートは大概がガラガラである。僕は今まで「そんな時間に設定している主催者が悪い」と思ってきたが、「働き方改革」が叫ばれる今、「18:30開演のコンサートに、たまにでも行けないような働き方こそが変わっていくべきなのではないか?」と考えを改めた。
 日本人はこれほどに働いているのに、労働生産性は低いままで、国際競争力も長期的には低下の一途をたどっている。「規格大量生産の時代は終わった。これからは付加価値を生み出し、高いモノでも買ってもらえる製品・サービスを売っていくことが必要だ」と、20年前から言われているが、過重労働で平日夜のコンサートにも行けないような働き方で、付加価値が生み出せるだろうか?
 岡山ではJ1リーグへの昇格を目指す、ファジアーノ岡山への応援熱が盛り上がっている。私の会社ではファジの試合がある水曜日はなるべく定時(17:30)で帰ろう、という文化が育ち始めている。水曜日にはユニフォームやタオルを持って出勤してくる人も見えるようになった。
 ファジアーノがJ1リーグに昇格してくれれば、これほどうれしいことは無いが、僕が一番良かったと思うのは、ファジアーノがこうした岡山の「アフター5」の文化を変えつつあることだ。試合を見に行く人は、残業することよりも、ファジのサポーターとして観戦に行く時間に価値を置いている、それに加え周囲の人も、ファジのサポーターの観戦に費やす時間の価値を認め、応援してスタジアムに送り出している。社会・文化資本が地域の中で尊重され、循環し始めていると感じる。


目指すのは、「文化デフレ社会」から脱却し、『文化・芸術資本の循環する社会』を創ること。
 このように市民の間にプロのスポーツチームを応援する、あるいはプロの芸術家の技に触れる、プロフェッショナル達が尊敬され、作品やパフォーマンスが正当に評価され、創作が喚起され、人々の居場所を作り、感動を呼び起こし、正当に評価された対価がプロフェッショナルの間に還流するという、『文化・芸術の循環する社会」を築く、それが岡山の街の目指すべきすがたである。その大きな波が起これば、岡山フィルの地位向上や資金の問題の解決、その結果としての岡山独自のオーケストラ文化の隆盛と楽団の実力向上への道が、おぼろげながら見えて来る。

 少し脱線するが岡山フィルの定期演奏会で毎回募集する「市民モニター」と称するコンサートのタダ券の配布。これもやめるべきだろう。1000円でもいいから身銭を切ってもらうべきなのだ。タダで聞きに来た客が(1階席の四隅の席が充てられるのですぐに分かる)コンサートが始まってまもなく、演奏の最中に席を立って扉を開けて帰ってしまうという現象を何度も目撃しているが、これは「タダで聴きに来ている行為そのものに駆動された行動」であるといえる。人がお金を払うという行為には、購入する物に対する敬意も含まれており、無償のモノには価値を見いだすことは心理的に難しいからだ。

岡山のロス・ジェネ世代が生み出してきた、「衣」「食」「住」の「本物志向」
 芸術・文化面では、まだまだこれからだが、ファジアーノに続いて「衣」「食」や「住」の消費社会では流れは変わってきている。2000年代後半ごろから、都心回帰へと人々の住まい方が変化したのと同時に、1970~80年代生まれの、バブル崩壊後に社会人になった、いわゆる「ロス・ジェネ」 世代を中心とした「本物志向」の消費に牽引され、空洞化していた市街地中心部や「役割を終えた街」の筈だった問屋町に雑貨やインテリア、ファッション関係の店舗が増え、職人の技術や仕事の価値を認めようという動きが拡がってきている。
 この世代はバブルまでの大量消費社会の洗礼を浴びておらず、青年期に価値観の180度転換を迫られた「バブル崩壊」「阪神大震災」「地下鉄サリン事件」を見てきた。流行に対して懐疑的で、自分が本当に気に入ったものしか信じないという消費傾向を持つ。アカセ木工の家具がこの世代に売れ、油亀のようなアートスペースが活気づいているのは、この世代がこうしたこだわり消費を牽引しているからだと思われる。

 そこに、2011年の震災以後の、東日本を中心とした移住者の急増や、ロス・ジェネ世代が消費者の中心としてイニシアチブを握る時代に入り(同時に岡山フィルの首席指揮者にシェレンベルガーが就任し、岡山フィルの快進撃が始まった時期とも重なる)、少しづつではあるが、「価値のあるものに対してはしっかり対価を払う」あるいは、価値があるかどうか自分では分からないものに対しても、「その価値が分かるように感性を磨きたい」という風に考える人々が急速に増えてきたと感じる。

 しかし、課題がないわけでは無い。

 これらの世代が読んでいる「オセラ」という雑誌がある。
オセラ2018年3-4月号 92号

オセラ2018年3-4月号 92号

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: ビザビ
  • 発売日: 2018/02/25
  • メディア: 雑誌


 「おとな、暮らし、ときどきプレミアム」を合言葉に、上質な大人のライフスタイルを提案している雑誌で、いわゆる従来の「タウン情報誌」から一線を画した誌面になっている。
 しかし、この雑誌には音楽文化、美術、アートなどの芸術・文化に関する記事が極めて少ない(ほとんど見たことがない)。
 雑誌の誌面は、その雑誌の読者層の鏡だ。岡山の「本物」消費を牽引している世代にとっても、芸術やアートを消費するハードルはまだまだ高いのだと思うが、やはり心の養分となる芸術・アートへの消費の高まりがなければ、なんとなく外側だけの本物志向に陥ってしまうのではないだろうか。「文化・芸術の循環する社会」への移行は、この世代の消費の広がりが不可欠である。 


『後楽園』を受け継いできた岡山だからこそ、「本物」を創造することは可能

 岡山フィルが、そんな文化資本の循環する社会の中で、次の世代に受け継がれていく、そんな姿が僕の夢だ。受け継いでゆく文化があるというのは素晴らしいことだ。自分たちが大事に育ててきたものが次世代に引き継がれ、自分が死んだ後も脈々と生き続ける。街の人々の精神安定作用にどれほど貢献することだろうか。岡山には、天下の名勝:後楽園を受け継いできた歴史があるのだ。


 次に、「文化・芸術の循環型社会」の中核となる、岡山フィル自身に必要なものは何か?について考えてみようと思う。


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国内オーケストラ業界と岡山フィル発展への研究(その5:安定財源のもたらす圧倒的な果実) [岡山フィル]

 このシリーズ記事、4か月ほど更新をサボっていましたが、先日、N響のコンサートを聞いたことにも触発されて、今回は第5回ということで「安定財源のもたらす圧倒的な果実」を見ていきます。
 第4回までのエントリーで、バロック・古典派からロマン派の主要な楽曲をカバーできるサイズ=4管編成のオーケストラを維持するためには、事業規模10億円が一つのラインであり、東京以外の地方都市において4管編成を維持しているオーケストラは、数億円規模の地方自治体支援により支えられていること。老舗の大阪フィルが地方自治体支援という屋台骨を失ったことで、大都市オーケストラの標準サイズである4管編成はおろか、3管編成すらも維持が厳しい状況に陥っていることなど、オーケストラ経営には安定的な財源が必須であることが分かった。
 民間支援の可能性が大きい大阪のような大都市圏でオーケストラでさえも、公的支援無しでは2管編成の維持がやっとの状態になってしまう。大阪では新自由主義的な競争原理が持ち込まれ、それは一定の合理性を有するため、市民の大勢に受け入れられた。しかし、結果は大都市としての品格・風格を体現し日本を代表するオーケストラでもあった大フィルの経営的な凋落を招き、『損益分岐点』である2管編成のオーケストラへと縮小均衡、その結果、将来的には大阪では同じようなサイズのオーケストラ4つがせめぎ合うという構図になることを予想した。3~4管編成の維持には莫大な初期コスト(=人件費)がかかる以上、致し方のない帰結と言える。

 今回は「安定した財源」を持つオーケストラの経営数値を見てみようと思う。私が注目したのはオーケストラ楽曲のほとんどすべてのレパートリーをカバーできる規模である4管編成のオーケストラ。
 ここで取り上げるのは日本を代表するオーケストラ、誰もが知っている「N響」こと、NHK交響楽団だ。

 言うまでも無く、N響はNHKからの補助金が主な財源となっているが、その額はなんと14億円!!(2015年度実績)
 資金難に瀕する大フィルなどからすると「そのうち1億円くらいわけてくれてくれい!」といいたくなる額だ。

 しかし、N響の財務面での強さはそれだけではない。経営数値をもっと詳しく見ていくと、N響がNHKからの補助金に依存しているだけのオーケストラでは無いことが分かる
 2015年度の演奏収入ランキング

演奏収入.JPG
 N響は演奏収入の面でも東京フィルに次いで2位。もう少し掘り下げて、演奏収入を楽団員数で割った数値、すなわち楽団員一人当たりの収益力を見てみると、これも3位に付けている。

楽団員一人当たりの収益力(2015年)
収益力.JPG
 この数値にはNHKからの支援は入っていないため、純粋にコンサートだけでどのぐらい効率的に稼げているかがわかる。演奏収入では1位だった東京フィルは、楽団員一人当たりに直すと、それほど効率的には稼げていない

 もう一つ民間からの支援を見てみよう。

民間支援ランキング(2015年度)
民間支援.JPG

 1位の読響は経営母体の読売新聞社からの資金が計上されているので別格としても、ここでもN響は3位の位置につけている。そういえば今月のN響の中国地方ツアーも、エネルギー関連企業がスポンサーになっていた。

 安定したNHKからの14億円もの財源で演奏能力の向上と優秀な奏者を採用し、国内随一の指揮者とソリストによる魅力的なプログラムにより、国内屈指の収益を叩き出し、かつ公共放送による露出の高さに加え、伝統とブランド力を備える。潤沢で安定した財源が投資を呼び、スポンサーも続々と集まってくる、いわば「総取り」経営が見て取れる。
 読響や都響など、財源が安定している他の在東京オーケストラも同じような状況だといえるだろう。

 いわゆる「御三家」のオーケストラだけでなく、名古屋フィル(4位)、札響(9位)や広響(10位)、京響(13位)、群響(14位)などの地方都市オーケストラも、行政からの補助金だけでは無く、民間資金も積極的に獲得している。
 市民の税金が原資の補助金を投入する過程には、納税者の理解や政治的利害調整が必要であるし、そのプロセスの中でオーケストラに公的資金を投入する意義についての議論は避けて通れない。
 公的支援に頼らない経営が理想なのは間違い無いが、一方で、地方都市では行政が補助金を出すことによってその事業の信用度や文化的投資への決意を見せることで、民間スポンサーも俄然、集まりやすくなる。逆に言えば行政がお金を出さない事業に民間もお金は出せない、というのが現実だろうと思う。

 このようにオーケストラにとって、『安定財源』の確保が経営上極めて重要であることがわかる。今回見てきたN響や大都市のオーケストラの経営数値が明らかにしているように、安定した財源(地方自治体支援など)があれば積極経営にも打って出られるし、民間からの支援も集まりやすくなる。経営の選択肢が増え、相乗効果を生み出していくことで事業規模をさらに拡大していくことが出来る。プアな財政で楽団員に際限の無いプロ根性や反骨心に期待するような経営では、やはり無理が来るのだ。

 第4回で取り上げた大フィルを例に取ると1億7万円の公的補助を出し惜しんだがために、3.7億円と48,000人の経済活動の縮小を招いている。このまま打開策が無ければ中小規模の4つのオーケストラがひしめき、かつての「大フィル」「朝比奈隆」のブランド力がそのまま大阪のブランドやアイデンティティに寄与していた状況を失ってしまうことになる。お金では換算不可能な莫大な損失だ。 

 翻って岡山の状況について考えてみると。岡山市が岡山フィルへの支援を表明しているのは心強いが・・・果たして、見通しはどうなのか?次回以降は岡山フィルの今後について考えてみたいと思います。

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